生の所在 2022/09/27

正岡子規『仰臥漫録』を開いて少し読んだ。子規が死の直前まで書き留めていたという「日記」である。ヘチマのこととか、日々食べたものとか(けっこうな大食い)を書いている。少し前に、とある先生に僕のブログ日記を指してあれは正岡子規にインスピレーションを受けてるのかと聞かれたことがあって、それでポチったのであった(実際のところ、正岡子規の日記とはまったく関係なく、ただ単にインターネット育ちの手癖で長々と続けているだけなのだが。黒歴史mixi日記は闇に葬ってあります。人生は振り返ると穴に隠れたくなるような過去しかないのになぜ日記を書いているんだ俺は)。

しかしそれにしても、かれこれ2年ぐらいは、「日記」以上のまとまった書きものをほとんどできない状態が続いている(いくつかお仕事で出力したものはあるがそれはかろうじて残った技術と経験貯金をなんとか絞り出して間に合わせたようなもので新しい問いを掘って掘って進むような書き物は全然さっぱりだ)。

午前中、医ケアの研究に関連してオンラインインタビューを一件。お時間いただいてご経験を分かち合ってくださりいつもいつも頭が下がる思いだ。終わってから疲れと眠気を感じたので昼過ぎまで仮眠。そのあとまた一件、短めのZoom。

長く続いているどうにもいかない納得し難い出来事があって、午後それに関連してメールを一件受け取りまたズシンと来て動悸もして、そこからはほとんど何も手につかず、ふうやだなあ困ったなぁとなったのだが、偶然、夕方が月イチの通院日だったのがせめてもの救いだった。毎日飲んでいるいつもの薬に加えて、久しぶりに頓服をもらい、それから、これまで使ったことがなかったけど最近中途覚醒も多いので、眠剤も出してもらって試すことにした。

時間と身体はおそらく未来に向かって進んでいるはずなのだが、時折グイと肩を掴まれて過去に、沼に、穴に、引っ張り戻されるような感覚はなくならない。主治医の先生に「鈴木さんに一番の処方箋は忙しくすること」と言われ、それはその通りで、先生の方針は一貫しており、僕も「医療」担当である主治医の先生との関係はこれで良いと思っているが、それはそれとして、話す、話を聞いてもらう、という時間が必要に思われて、久しぶりにカウンセリングも予約した。

「ソーバーを保つというのは、モヤモヤを抱えたまま生きることなのかもしれませんね」と、先日別の先生とお話したときにもらった言葉を思い出す。

友人がLINEギフトで贈り物を送ってくれた。ありがとう。

行き帰りの電車で、先日の作業療法学会で白石さんにご紹介いただいて、基調講演も途中まで聞いた、郡司ペギオ幸夫さんの『やってくる』を開いて半分ぐらい読んだ。だいぶ前に買って積読していたのだが、本を開く前に今月そうやってお会いしたのも、タイミングだったのだろう。

この日常が成り立っていて自分の生が続いているということがものすごい奇跡のような、ともすると錯覚なんじゃないかと思われる危うさ、「薄氷の上」感がしばしば湧き上がる。実際そうなのだろう。病後の自分はどこか少し「余生」をやらせてもらっているような感じがする。

クリニックから帰宅すると、ちょうど晩ごはんが出来て二人で先に食べるかいうところだったらしく、そのまま3人で夕食を食べた。運動会を週末に控えたムスメが、今年の年中さんのダンスをえらい高いテンションで披露してくれて、なんだか笑ってしまった。「生」はここにあり。