正直、けっこう苦手なことをしているなという自覚はある。
心身いろんなところの神経接続がずいぶんとぎこちない感覚があり、妖怪人間ベムじゃあないけど、「はやく人間になりたぁい」といっつも思いながら、どうにかこうにか日々を乗り切っている。
仕事が早そうに見えるのはごまかし効いてるだけで、私のパラメータ配分は言語処理能力だけに異様にポイントが振られたような感じなので、数的処理とか空間認知とかあるいは人の感情を読んでその場の流れに乗ったり作ったりみたいなものはかなりの苦手意識があり、そういうものはいつも脳内だったり手元のメモ帳だったりを駆使して、一度言語情報に落とすというステップを踏んで、つまり言語で補助線を引きながら理解して対応している、という回り道なのだ。うまくやれてるように見えてても相当疲労する。
しんどいことが多くてもなんだかんだと仕事が続けられているのにはたぶんいくつか理由があって。
1つめはそれがまさに「仕事だから」だ。仕事なんだから、自分の内的葛藤や逡巡や苦手意識なんかよりも、ユーザーが必要としている価値を生み出して届けることのほうが当然に重要なのであり、そのためなら苦手なことだってなんだってやるのだ。やっていくうちに苦手でもできることは多少は増えるし、自分たちのやっていることを必要としている人がいると信じられる限りは勇気だってエネルギーだって湧いてくるってものなのだ。たぶん僕は仕事じゃなかったら、仕事というものがなかったら、何事も続かないし、なおのこと人間になれない。
2つめに、仕事を「働く」という観点で、つまり仕事をする自分自身の側とか、自分と一緒に仕事をするチームの側から捉えたときに、自分のような凸凹が大きい人間でもどこかピースとしてはまるところがあるだろうと信じられるし、そう信じていられるうちは見つかるまでがんばろうと思えるのだ。1つめの話に続けて言えば、仕事というのは「成果」で判断されるものだから、成果を出すための手段は1つに固執しなくて良いわけである。もしたった一人だけで成果を出せ、なんて言われたら、得意も苦手もなく1から100まで血反吐を吐いてがんばる、みたいな選択肢しかないわけであるが、チームでやるならば、自分が苦手なことは自分より得意な人に任せ、その人が苦手なことはこれまた別の得意な人に任せ、という組み合わせでもってトータルの成果を出せればいいわけだから、それぞれが自分の得意に専念できる環境をつくる、というのが最適解になる。妖怪人間でも妖怪人間らしく輝ける場所があったりする。
ところがしかし現実はなかなか理想通りにはいかないわけで、常にあらゆるリソースがベストな組み合わせで揃っていることなんかあり得ないので、なるべくチームとしての最適解を目指しつつも、やはり段階的には、それぞれがちょっとずつ苦手な部分も引き受けて踏ん張って乗り切る、みたいなことは避けられない。
その「踏ん張り」の必要度合いというのは時期によってまちまちだけれど、最近はどうしても大きな踏ん張りが必要な時期であることを自覚していて、そういう時に何が支えになるかっていうと、結局は自分にとって大事な人たちの「信頼」に他ならないのだと思う。僕の場合は特に。
「今は成長痛だね」という言葉と、「お前はお前にしかできないことをやれ」という言葉の両方を僕にくれたのは前の上司なのだけど、その一見矛盾した言葉が意味を成す、両立し得るということを僕は知っているし、どういう思いでそれを投げかけてくれたかを僕は勝手に想像して自分の勇気としている。