Diary: 2019/04/22

お昼を食べながらよもやま相談に乗っていたら、いい意味で「砂みたい」だとの評をいただいた。しかしまぁ、言い得て妙である。

移動中、南武線の車内。車椅子に乗った、小学生高学年〜中学生ぐらいの男の子が、車内アナウンスにならって駅名を嬉しそうにつぶやいていて、隣に座るお母さんは、勢いで動く彼の腕が他の人に当たらないようにさりげなく抑えながらもにこにこと話を聞いていた。彼の隣に、ベビーカーに乗った生後2-3ヶ月ぐらいの赤ん坊とそのお母さんがやってきて、2-3駅の間、車椅子の少年とベビーカーの赤ん坊が並ぶ構図になった。それがただ、とても美しいと思った。

誰かを支え応援する役割にある人をも孤立しないように、個人間のホットラインと、集団内での開かれたダイアローグの場を、網の目のように張り巡らせていくことが、色んな意味でサステイナブルなんだろうという実地感覚をますます強める。

「語りえないことについて語ること」から始めるという知人の寄稿文を読む。本当に大事なことは語りえない。断片を語ることによってその語りえない空白の輪郭を描くことはできる、ということだった。

もっともだという戒めを受け取りつつ。

同時に、やはり最終的にはフィクションの方にいかざるを得ないという予感を覚える。