遠浅で

 それで、睡眠はどうですか? 寝付きは。

 いいです。いつも布団に入るとすぐ眠ってしまいます。

 そうですか、それはとてもいいことです。

 その人はモニターに文字を打ち込みながらなにかに納得したように言った。この部屋の扉は防音で分厚く、窓はない。壁は木の模様をした木ではない素材でできている。

 眠っている間はどうしていますか?

 とはその人は聞かなかった。

 海の夢ばかりずっと見ています。

 とはわたしは答えなかった。

 海の夢なんていいじゃないですか。きっと綺麗な夢なんでしょう。とても良さそうな眠りだ。いいなあ僕なんて眠れても廃屋で逃げているような夢ばかりですよ。

 存在していない人が言う。

 そう、十夜夢を見たらそのうち七夜には海が出てきます。残りの三夜ですら、潮風のように海の気配があります。海のある世界の夢です。海は、濁ってごみだらけのときもありますが、大体が美しい海です。それは美しい、というよりも、この世に存在しない美しい、で、ほとんど恐ろしい、に近いかもしれません。荒れ狂っていることもありますが、その海が深くないのをわたしは知っています。遠浅で、朝であることはあまりなくて、あるいは昼過ぎか、ほとんどは夕方か日が暮れたあとの海です。透き通っていて体温と同じくらいの海で、そこの中にいたり、車や電車で通り過ぎたり、崖の上から見下ろしたり。海の上の遊園地や浸水したホテルのようなところにいることもあります。その中で海は遠い存在であり、いつも足元にあります。

 存在していない人に言う。

 海に憧れているから海の夢を見るのか、海の夢を見るから海に憧れるのか、どちらでしょうね。

 

 海を見た体は疲れている。全身が強張っていて、真冬でも汗で寝巻きが濡れている。眠っている間にも体は泳いでいたのかもしれない。遠泳のあとの体を抱えて、しばらく布団から出ることもできずに天井を見つめる。

 夜にはたしかに、子供の頃のような柔らかい体で溶けるように眠りについたはずだった。でも、起きた瞬間にこの重い体に取り残されている。そのことに毎朝呆然とする。しかも体は毎朝少しずつ重くなっている気がする。

 わたしは目が覚めたときには大体見た夢のことを覚えていて、覚えているということはとても眠りが浅いということなのだと思う。わたしにとってあらゆる意味で眠りは海で、波のように寄せては引いて、潮のように満ちては引く。水が引いているとき、わたしの半身は海の中にいながら、半身はこの街のこの部屋の中にいる。遠くで犬が鳴いているのを聞き、太陽の光が強まっていくのを見て、空腹を感じていたりする。でも海にもいる。意識は溶けていてどちらがどちらかわからない。

 眠りの海はどこまでも浅い。だからきっと、泳ぐというよりもずっと体を半分浸しながら歩いているようなものだ。海が深く広がるところを探しながら。

 

 最近も旅先で海を見た。新幹線で北に行き、そこから車で北に行った。道中ずっと右側に海があった。その旅では海を見に行ったわけではなかった。むしろそれらの土地で海は頑なに隠されていた。

 そこでは外はとても寒くて車は暖かくて、わたしは後部座席で浅く眠る。車が高速に入った気配に目を開くと、防音壁の隙間から一瞬海が見えて、それは青くて、見えなくなる。

 

 わたしは海を見るのが昔から好きだった。新幹線も海側の窓席を予約するし、飛行機では小さな窓に額を近づけて雲の合間から海を探す。会社にいた時は貯金もせずに、休暇を海を見るためだけにあるようなホテルで過ごした。

 東京で生まれて、街と長野の山奥とを行き来して育った。海は知らなかった。山で蕎麦屋を営む家の夏はリゾート客で騒がしい。そこを抜け出し、ひとりでどこまでも続く木の中を進んでいくと、音はすぐに消える。熊のいる山と繋がっている山だ。花や木の実を気の向くままに摘む。木の合間に簡素な別荘が点々と見えている。大体が廃墟で山の重みに耐えきれず撓んだかたちをしている。

 定期的に大きな荷物と一緒に車に乗せられる。走り出してからは、横を過ぎていく暗い森が恐ろしくて、緑色のデジタル数字を見つめるうちに後部座席に横たわり眠っている。次に目を覚ますと、新宿の街の賑やかな光に囲まれている。人がたくさんいる。

 そうしてずっと山とビルのないところ、水の深さだけがあるところに憧れていたのかもしれない。

 死んだら骨はイタリアの海に撒いてね。

 母が言った。

 母もまた海に面していない土地で育った。母の骨を捨てる海も既にわたしの海にあるだろうか。 

 それでも小さい頃は海の夢を見たりはしなかった。そのころ眠りは深く、暗く、暖かかった。覚えているのは海ではなく川。山の家の目の前を、背の高い木に挟まれてわたしの膝ほどの深さの川が流れていた。透明で冷たい川の流れは早い。川の中に立って水が流れていく方を見ると、すこし先で川は道路の下を潜っていて、真四角の暗いトンネルに吸い込まれていく。どこまでその暗がりに近づけるか何度か試した。わたしはあの時どこまで行ったのか、あの川はどの海に繋がっていたのか。

 

 その車は地名に陸の字が含まれる土地に着く。そこでは、海の近くにはほとんど何もない。運動場と、盛り土や道路の工事をする重機、ひとつだけ建っている建物があって、それを車から一瞬だけ見る。五階建ての団地の四階までは躯体だけになっていて、窓の部分には窓の形の穴だけがある。いくつかひしゃげた窓枠が残っている。

 壁に大きく線が引かれている。

 あの日ここまで水が満ちました。ここより下の壁を海が通り過ぎていきました。

 線は語る。

 海沿いに静かに建つ施設に車は停まる。そこから堤防まではまっすぐ一本の道が通っていてわたしたちはふらふらとそこを歩いていく。正面、視界の行き着く先には山のような盛り上がりがある。

 巨大なベルトコンベアであの山から土を持ってきて、ここに盛ったんですよ。堤防。

 その場にいる人が遠くに手を掲げながら言う。

 それは右にも左にもどこまでも続いていて、わたしたちはその中心あたりを登っていく。登っていくにつれ、階段の先が眩しくなってきて、そして海が見える。上にあったのは四角い小さな場で、正面に太陽があってその下に海が開けている。海とわたしの間には透明なガラスの手摺と、大きな石の塊がある。石の塊の上にはひとつだけ花束が置かれ、留めてあるワイヤーの下で花が震えている。風が強い。耳が落ちそうに寒い。

 堤防の上を右から左へ、犬と人とが通り過ぎていく。四角い場を囲むガラスをしゃがんで磨き続ける人がいる。

 その場にいるもう一人はなにも言わない。

 あの日、一緒に逃げようと言えばよかったんです。

 記録された映像の中の人が言う。

 あなたはなにひとつ知らないガラス越しに見るだけで。

 その場にいない人が言う。

 ガラスを磨く人はもう一周してガラスを磨き終えようとしている。終わったら次は何を磨くのかと見ていると、また最初の場所に戻ってガラスを磨き始める。その四角い場以外では手摺はすべて頑丈な鉄でできていて、地面に深く差し込まれている。

 わたしたちはお腹が空いたので海の匂いのするラーメン屋で海の匂いのするラーメンを食べる。潮味、と醤油味、があってみんな醤油味を食べる。わたしも、あの海だってわたしの海に時間をかけて混ざっていくのかもしれない、と思いながら食べる。

 

 遠浅の眠りは起きているときにも目の前に広がっていて、そのようにしてわたしの起きているときと眠っているときの境目はとても曖昧だ。街にいても、誰かと話していても、いきなり眠りに引き摺り込まれる。浅瀬を歩いていたはずなのに、踏んだ岩が傾き体が水中に滑り落ちる、あるいはあまりに砂が柔らかくて体が重くて、砂に埋もれていく。とにかく海はいつでも満ちていて、それは浸水体験のARアプリをかざして見る世界と似ているかもしれない。

 会社ではよく海に落ちた。落ちそうになると、靴をすこし脱いで足をタイツ越しに、冷たい金属の椅子の脚に押し当てる、ペンのうしろでこめかみや手のそれっぽいツボを抉るように押す。それでもどうしたって海の底に引き摺り込まれてしまう。

 もちろん会社ではないところでも眠る。喫茶店でも映画館でも、初めて行った宝塚でも、初めて行ったブロードウェイでも眠る。

 眠れない時ももちろんある。眠れるのに理由はないけれど、眠れないのに理由はある。海が怖いのだ。あるいは海の中に居続けなければいけない、ということが。きっかけがある時もある。通り魔のニュース、頻発する地震、通りでわざとぶつかられる、病気、貯金、誰かが誰かをなじる怒る殺す。

 暗い部屋で起きている時はひとりで、端末の光を夜の海にかざしたところでなにも照らさない。そんな時はずっと祈る。言葉はない。でもおそらくこんなことを。

 どうかこの部屋のわたしを、この部屋で眠っている人を、この部屋で眠っていない人を、守ってください一万年生かしてください。柔らかい体のままに、すべてを忘れない体で。

 朝になればまた体が重くなることも忘れて。

 

 わたしたちの車は、箱舟を象った博物館に行く。その地下には大きな波で形を変えたものたちがそのままに置かれている。自転車電柱人形楽器椅子。家のタイル、タイル、タイル。そのひとつひとつに葉書が結えられていて、そこにはそのものたちにまつわるストーリーが小さく書かれている。それは学芸員が丁寧に想像し記したもので実際に起こったことではない、実際に起こったことは語られる術がない、でもここではそれが実際に起こったことかというのは大した問題ではない。

 また車に乗る。道を跨いで建つ大きなセメント工場を通り過ぎる。

 この工場はここらで一番早く復旧したんです。

 運転する人が言う。それを聞きながらわたしの体はまた海の中に落ちたり浮かんだりしている。

 それから車は山の地形に沿っていくつものカーブを曲がり、入り組んだ海岸線のうちひとつの集落に降りていく。数え切れるほどの古い日本家屋が坂に沿って点在している。どれも立派な棟と瓦があって、石垣の上で庭に囲まれている。庭の柿の木には木が折れそうなほど実がなって午後の陽に光る。

 ここに来るまでの山からは確かに海が見えた。でもそこへ降っていき、海に近づけば近づくほど海が見えない。海へと続いていたところ、その集落を挟む山と山との間には、巨大なコンクリートの壁が建てられていた。背後の山の向こうから差す西日で壁が白く輝く。

 あの日は海がここから山をのぼりました。だから堤防を高くしました。断面のほら、この黒いところがもとの堤防、その上の白いところ、三倍くらいの高さ、これが新しい堤防。

 その場にいる人が言う。

 わたしはその分厚さと高さ、あまりの隔たりに呆然としてなにを言っていいかわからない。わたしとわたしの海の間も分断されたような感触があって、そんな権利もないのに少しだけ傷ついている。五歩ほど歩いて壁をくぐり抜けると、その向こう側には海が広がっている。湾になっているから海の先はまた山で、青とオレンジが重なっている。そのまた向こうで雲は動かない。真っ青な中に船が散らばって白く輝いている。見たことがない景色を懐かしいと思うのはいったいなぜなのかとぼんやり思う。

 あそこでこれから産まれて育つ人にとって、海って全然違うものになるよね。原風景にはいつも海はあるけれどそれは壁と結びついて思い出されて。大きな壁を見たときには海を思い出すのかな、その隔たりの向こうに異界のような海が広がってるっていう気がするのかな。

 その場にいるもう一人がその場を去ったあとで言う。

 その人の育ったマンションの目の前には、筒状の高速道路が街の真上を跨ぐようにかけられている。その人はそこで育たなければその人ではない人だった。そこで育ったような人だった。そこはかつて一面の農地でその前は草原だった。

 その場にかつていた人がいまなにかを言っている。わたしには聞こえない。

 

 遠浅の海はいつもここにあるけれど、それでも眠っているときと起きているときの間には境目があって、眠り側に落ちる前の一瞬、その意識が指先から離れる本当に一瞬、なにかを既に知っていると思うことがある。なにかというのが何なのかは、はっきりとわからないけれど、あらゆるものの集積、思考や感覚を超えたもの、境目や輪郭の消滅した世界。妄言だと知っている。それに、そのなにかに近づいたと思った瞬間にはもう向こう側にいる。

 でもきっと、わたしが思い出していないことのすべてがそこにある。思い出せることを少しずつその海に明け渡して死に近づいていく。

 土地に土が淡々と盛られ、ガラスを磨く人がガラスを磨き、堤防の上を犬と人が歩き、セメント工場ではセメントがつくられ、壁の向こうで湾にはいくつもの船が死んだ魚を載せて帰ってくる。あの海のことはまだ覚えていて、まだ遠い。