はじめまして。鈴木悠平です。
「閒(あわい)」という株式会社を営んでいます。
ひと・もの・ことのあいだー閒(あわい)に横たわるなにかを見つめて、掬って、かたちにしたり、しなかったり、誰かに贈ったり、分かち合ったりしています。
「文筆家」それから「インターミディエイター®」と名乗っています。
テープの巻き戻しみたいな感じで、時系列をさかのぼりながら自己紹介をしてみます。
2020〜2022年、ここ数年は色々あって、体調も崩し、生活も仕事もどうにかこうにかイチから立て直そうとしています。手帳や障害年金を取ったり、重度訪問介護という制度で友人宅でのヘルパーの仕事を始めたり、大学院に入り直したり。家族と友人と、福祉制度に支えられながら、自分に合った生き方、働き方をつくろうとしている途上。
2021年秋から、立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程に入りました。閒という小さな会社であり場のようなものをゆっくりと耕しながら、研究と実践と表現を行き来してしています。
2020年の5月11日にこの会社をつくりました。
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2014年から再び東京に。
株式会社LITALICOに入社しました。はからずも、自分自身の特性に気づき、向き合うことに。
「私は発達障害なのか?」問題に直面した生きづらめなオトナ達に贈る長い手紙、あるいはひとりごと
会社で出会った人と結婚しました。ムスメと3人で暮らしています。
2018年に体調を崩して適応障害に。病気を隣人として回復のプロセスを歩んでいます。
色々書いたものをアーカイブしています→メンヘラさんのサステナ戦略
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2012年からニューヨークへ。
大学院修士課程で公衆衛生を学びました。
寒かったです。お金がなかったので、本当に、色んな方に助けていただきました。
大学時代の同級生とここで再会し、在学中はお互い想像もしなかったぐらいにたくさんのことを語らい、共に過ごし、鬱々としていた僕は大いに救われました。彼から教えてもらった、故・加藤典洋さんの『言語表現法講義』が心の師匠でありバイブルです。書くことに対する姿勢と覚悟はこのころにだんだん固まりはじめたのかもしれません。
神戸、石巻を経て、異国の地にきて、ようやくほぐれたなぁという感じです。
「自分の傷なんて大したことない」と、あらゆる"当事者"に遠慮していた
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2011年から、宮城県石巻市へ。
友廣裕一さんと出会い、「一般社団法人つむぎや」を一緒に立ち上げ、浜の息子みたいな感じでかわいがってもらいながら、牡鹿半島漁村のお母さんたちと、震災後の地域の手仕事事業の立ち上げに関わりました。
その1年間の歩みは本にもなりました。『OCICA 石巻 牡鹿半島 小さな漁村の物語』
当時、東京で出会った西きょうじさんに、吃ることを「いいことだ」と言ってもらったのも、大事な思い出です。
吃ることがいいことだなんて思えなかった。「隠れ吃音」の僕が自分の体と仲良くなるまで
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2007年に上京。
大学に入学。
右も左も分からぬ世間知らずで、そのくせ好奇心でやたらと動き回ったものですから、いろんな人たちにかわいがってもらったり叱られたり、高まったり落ち込んだりしていました。
当時はmixiというサービスが流行っていて、その頃から今に至るまで、プラットフォームを変えながらもずーっと、インターネットで文章を書いています。インターネット育ちの物書き、という感じです。
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1987年に神戸で生まれ、19歳まで過ごしました。
震災を経験したのは小学1年生でしたが、その時の被災度合いが物理的に「大したことなかった」という認知で育ったため、そのことによる「過剰な遠慮」がほぐれるまでに20年近くがかかりました。