中目黒で、友人とランチやお茶の約束があったので、お昼前に家を出て電車に乗り、伊藤亜紗さんの新刊『手の倫理』を読んでいたら、ここ半年ほどの色々が湧き上がってきて、ここ最近積み重なっていた疲労やモヤモヤも相まって、いやぁ参った参った。
そうか、僕も「さみしかった」のだなぁ、と今さらながら自覚する。
出会い頭、あるいは別れ際に、「握手」を交わすということが、ほんとになくなったし、楽しくなった勢いでハグとかハイタッチすることもなくなったし、家族以外の身体に「ふれる」機会が、本当になくなってしまった。
ここ半年、感染対応に関する情報発信が仕事になって、「まぁもどかしいけどなんとか工夫してやっていこう」と、周りに呼びかけケアをして…という「役割」に自分を置いてたのだな。一つひとつの出来事・やり取り・行動、他者との関わりには何の不満もないのだけど、なぜだか最近消耗している感じがしていて、これはまずいなぁと思っていたのだけど、ああなるほど、自分の「さみしい」を自覚・表出する機会を後回しにした反動が出てるのだな。三密が恋しい。
すごい距離感近いみたいなのもそれはそれで苦手なので(体育会系のガッと肩組むみたいなやつ)、ディスタンス取って「ひきこもれる」環境との親和性は高い方だと思っていたのだが、相手に敬意や恐れを持ちながら、ふれる、ケアする、という機会は必要なのだな。「ふれる」と「さわる」の分けて語る『手の倫理』を読み始めて、ストンと腑に落ちた。
3人でランチを食べながら、仕事とお金と組織、それから文体の話をした。戦争と工業のメタファーでビジネスを描き、語るのがかつては有効だったんだろうけど、ちょっとさすがに今はそんなパラダイムじゃないよね、でも未だにその影響力は強いよね、言葉には気をつけたいよね、みたいな。死神じゃないんだからユーザーの「刈り取り」とか言わないでくれよな。
解散して、ちょっと散歩して、別の友人と合流した。コーヒーカップを持ちながら目黒川沿いを散歩。中目黒〜池尻大橋まで、1時間ぐらい歩きながら話したかな。オフラインで会って同期することの圧倒的な密度と速度。
ここ半年で知り合って一緒に仕事をした相手が、どれぐらいの身長で、どんな歩き方をしているか、全然知らないままだ、という話がとても印象に残っている。
会う、歩く、話す。一緒に時間を過ごす。それだけでずいぶんと視界が晴れやかになる。
「やっぱり、根を張る場所が必要なのかもね」
そうか。そうかもしれない。
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色々とオフラインで話をした勢いで、久しぶりに筆が進んで、書けた。
出版に向けたnoteマガジンも、閒のeditionにどこかのタイミングで引っ越したい。やはりもうなかなかnoteで書こうという気持ちになれない。ありがたいことに、出版用のマガジンを読者登録してくれている人がけっこういるので、その方々にアナウンスは適切にしたいとは思うけど。
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アパートメント、日曜当番、のんさんの記事もかんばらさんのレビューもとてもとても良かった。今日も明日も、アパートメントがここにある、ということ。大事に大事にこの場所を営んでいきたい。