寺・寺・寺・前 2023/01/10

二人目のお子がおぎゃあとやってくる前に、集中して頭と手を動かす必要がある大きめの塊はなるべく片付けて散らしておかねばと思うのだが、前もってちょっとずつというのは絵に描いた餅であり、結局その日その日の打ち合わせ直前とかにやっべうおーってなってそこで一番馬力が出たり頭が冴えたりするもんだからよくない。ギリギリでいつも生きていきたいわけじゃないんだけどーああー。で、今日は14時国分寺待ち合わせって言われたたんだけど、なぜか「高円寺」と読み間違えて、自信満々に「オンタイムです!」って高円寺に降り立ったわけ。ごめんなさい。高円寺と国分寺、30分圏内でよかった(よくない)。そのあと吉祥寺に行って、最後の予定が三越前(分身ロボットカフェDAWAN)だったので、高円寺・国分寺・吉祥寺ときて、寺コンプリートならず、惜しい。いやそもそも高円寺に行く必要はなかった。

こっちの人の悩みはあっちの活動と繋げれば助かるかもって話とか、あっちで培ったノウハウはこっちに活かせるかもって話がいつも各方面で同時にポコポコと起こって、まあなかなか一挙に全部とはいかないのだけど、色々動き回ってるうちに、自分のなかでもシナプスが繋がっていって見えてくることもあるのだ。で、これは連続した日常の中で起こり続けるので、仕事かプライベートかとか、個人か法人か、とか、事業か介助か研究か、とか、そういう区分けがほとんど意味をなさない。ただ、その場その場集まったメンバーや状況に応じて、それぞれが持っている課題やリソースも違って、その上で自分がどこに入るといい感じに埋まるかとか、自分が出来ないけどこの人の助けを借りようといったことはニュルッと考えて調整して動いている。そういうわけでいつも自己紹介が難しい。あと別の場所で会った人と、「あ!」ってまた別の場所で会ったりする。存在。偏在。

道中、島影さんとメッセンジャーでやり取りをし、送ってもらった「”現実”の自給自足展」の振り返りnoteを読み、ひとしきりやり取りをする中で、日常生活そのものがインスタレーション的である、という話をした。「ゆっくり」とした時間の中で、細かな、小さな、差異にアンテナを貼り、メッセージを送り受け取りあい、ケアをする、される、関係。解像度。これは追ってもう少し詳しく整理して書きたい。