ムスコが人間界デビューしてだいたい100日。ツマとムスメ、それからツマのお父さんお母さんも合流して6人で、お宮参り→写真撮影→お食い初めの半日コース。お宮参りと写真は通常生後30日のタイミングでやる慣習のようだが、2月は寒いし、バタバタするし、お食い初めの100日に合わせてまとめてやっちゃうことにしたのである。
前日にスタジオで借りた衣装をムスコに着せて(というか、かぶせて)ご祈願祭。この日はうちを入れて5,6組ぐらいだったか。妊娠中のお子さんが無事産まれますようにのお祈り組と、産まれた赤ちゃんがすくすく育ちますようにのお祈り組と。
うちの子は始まる前に一度目が覚めてふぇぇと泣いていたが、ばあば抱っこであやしてもらいながら、ご祈願祭開始の太鼓がドンドンと鳴るところで再びスヤァと眠りについた。他のご家族でも上の子が退屈で走り回ったりぐずったりしていたが、宮司さんは粛々と祝詞を読み上げて会を進める。赤子や子どもが主役のこうした行事は、泣くの騒ぐの当たり前という前提で進められるから、泣き声も足音も環境音の一つとして、変におさえようとされもせず、さりとて司会の言葉やら祝詞やら挨拶やらと別に調和するわけでもなく、色んな音や動きがそのまま雑に同居している感じがして、僕はこれけっこう好き。なぜって自分がじっとしてられないソワソワ多動な身体を生きているので。たぶん他の大人たちよりふらふらグラグラと足腰動いていただろうし、一応真面目に参加しようとはしてるんだけど、ここに書いているような思考(言葉)が脳内では常にザワザワ走っているのだ。
そういえば待ち合いスペースに、その名もズバリ『皇室』っていう季刊雑誌が置いてあった。こんな雑誌あるのかぁ。
お宮参りを終えて、そのまま駅前マルイの写真スタジオへ向かう。
この時点で既に滅多に履かない革靴にやられて靴擦れを起こしており、痛い。こんなときは俺もペルモビール(かっこい電動車椅子です)に乗りたいなぁ、などと思う。スィーって感じで。
写真スタジオでの撮影は、ムスコ一人で撮ってもらうのと(衣装3パターン)、ムスメ(5歳)ときょうだい2人で撮ってもらうのと、親子4人のと、じいじばあばも一緒で6人と、スタッフの方の案内段取りに従って順次進んでいく。ムスメのときもそうだったが、子ども行事用の写真スタジオスタッフさんの引き出しに感心する。ぬいぐるみや音で注意を引いてはパシャリ。さすがに後半は、ムスコもだいぶ疲れてしまったのか、衣装3パターン目のピン写真のときにはいくらスタッフさんがあやしても泣きっぱなし状態だったが、まぁ泣き顔も躍動感っつーか、生きてるって感じがしていいんじゃないのと僕は思う。
1家族の撮影に90分から2時間ぐらいかかるから、1日せいぜい5,6回転ぐらいだろうかとか、常時スタッフ4人いて地代家賃もかかってって考えたらこれぐらい料金かかってもおかしくないっていうか良心的なんじゃないか、などなど、待ち時間にツマと暇つぶしに適当な計算しながら立ち話していた。
撮影終わったらまた移動して、近くのホテルレストランで予約していたお食い初め膳コース。じいじに抱かれて鯛やら赤飯やらお吸い物やらを順番に口につけられるムスコ。いつものおっぱい・ミルクとなんか違う味がするぞ?って表情してた。
おそらくフロアマネージャー的な立場であろうダンディなおじさまが、表情といい身のこなしといいお客さんへの応対といい、映画とかドラマに出てきそうなホテルマンって感じで、食事を食べながらめっちゃ観察してしまった。
解散して家に帰ったのが3時過ぎ。さすがにクタクタである。
冠婚葬祭、家族行事、季節行事、そういうハレの日というか、意味が「型」に込められているイベントに参加することも、宮司さんとかカメラマンとか、そこでのサービスに従事する人の「仕事」を観察するのもけっこう好きなのだが、それはそれとして私の身体は「型」の中で美しくスムーズに動かすには凸凹が大きくまた疲れやすいので、難儀は難儀である。気づけば結婚して子どもが2人もできて諸行事に自分が参加していることにずっとどこか現実感がないまま、こうやっていつももう一人の自分が斜め上からその様子を観察しているような感覚なのだが、まぁそういうのもありだろうというか、別にいいんじゃないかと最近は居直っている。