身体と波 2023/05/07-05/10

今週からムスコの慣らし保育が始まった。あと2週間かそこらでツマもフルタイムで復職し、またそこでひとつ我が家の生活リズムが組み直されるわけだが、どうなることやら。お子も二人目であるし、何をやるかというto doレベルの話はわかっているし別に難しいことではない。変化といっても生活が丸ごとひっくり返るわけでもなく、朝と夕方の時間が今より少し慌ただしくなるからテキパキピリッと動かねばならんというシンプルな量的変化に過ぎないのだが、朝夕10分20分の余白が縮まるというのはけっこう馬鹿にならない。まあどうしたってやってくるのだし、ジタバタしたとて身体が速く動くようになったり体力が増したりするわけでもないので、脳と肉体リソースの無駄遣いをしないことだ。

何事も「興り」のタイミングは瞬間的なエネルギー投入が重要で(ダラダラやらない)、ある程度落ち着いてきたら程よく力抜いたり手放したりした方が良く、個人やチームのエネルギー総量も踏まえてほどよく緩急つけられると理想なのだが、ここ最近の私はなぜだかずーっと常に何かしらの新規事業やらプロジェクトやらライフイベントやらをどっこいしょしており、緩急の急ばっかりである。

落ち着きのないのはいつものことだ、と思いつつ、しかしよくよく35年の人生を振り返ってみると、3,4年に一回ぐらいで凪とか底とか鬱とか言っていい反対側の時期もやってきているようなので、そう考えれば今の感じがずっと続くはずもなく、動けるときに動き、くたびれたらうずくまり、の繰り返しなのだろう。

世の中には仕事や家事育児をうまく回すための技術ー今風に言うとライフハックがたくさん開発され出回っており、それはそれで使いこなせば有益なのは間違いないが、やはり私たちはそれぞれに異なる固有の身体を生きているわけで、身体そのものがつくりだすリズムの方が影響としてはよほど大きいし、またその身体に合った技術を選定して組み合わせないと大した効果が出ない。

自分と、自分が出会い付き合ってきた人たちを観察・対比した範囲の経験則に過ぎないが、常時介助を必要とするような重度身体機能障害のある人たち(症状が固定的か進行性かで多少異なるが)は、当然一つひとつの生活動作にかかるコスト(かかる時間、人員、体力etc.)が大きいので、その分何事も早め早めに、コツコツと、コンスタントに、準備をし積み上げてアウトプットしていく、というリズムの人が多く、確かに色々と大変なこともあるのだけど、身体を自分でもっと自由に動かせる人たちがその分だけ彼らより「速い」かというと案外そうでもない。多動・衝動・過集中、躁鬱、パニック発作etc. 身体は一応動くのだが脳機能に凸凹や障害があるという人たちは、動けるときと動けないときのギャップが大きく、やきもきしたり落ち込んだりしがちである(私もそうだ)。服薬や環境調整である程度その波を穏やかにできないことはないのだが、やはりこの「波」の上げ下げを諦めるというか、振れ幅の大きさを織り込んだ生活リズムをつくっていくという発想が必要だと思う。

研究とか事業とか会社とか、親とか子とか、本とか器とか土地とか建物とか、なんでもそうだが、先ゆく人たちが遺してくれたこと、まだ取り組んでいること、成し得なかったこと、託してくれたことー個としての肉体の限界と、人の営みの連続性・不朽性、があり、そのなかでの今生の自分の役割をよく見極めないといけない。

横塚晃一の「はやく・ゆっくり」をしょっちゅう思い出す。