邪悪なライチとわたし

 あわいの住人にライチという人物がいる。

 ライチは言葉を自分の中である程度きちんと定義して用いる人だ。その定義はライチ特有のものもあり、つまり紋切り型ではないので、ライチと話すときは「ライチはその言葉をどういう意図をもって使っているのだろうか」と推測することになる。わたしはそれが楽しい。

 たとえばライチは「私は邪悪だから」とよく言う。「邪悪」という言葉はけっこう強い響きを持っている。その意図をGoogle先生に尋ねると「心がねじけていて、人倫に反すること」と返ってくる。ライチが邪悪だとわたしはさほど思わないので、だから「どうしてライチはあえて『自分は邪悪だ』と前提を置くのだろうか」と考えることになる。

 ここでこの問いを少し脇に置いて、ライチと4時間くらいスペチャで話したときのことを書く。スペチャというのは「SpatialChat」というバーチャルスペースプラットフォームのことで、あわいの住人はしばしばここに集って雑談をする。

 なんの話題だったか、その日もライチは「私は邪悪だから」と繰り返し述べた。わたしの話になるが、わたしは人生の大半の部分を根が優等生な者として生きてきた。サイコパスな部分も持ち合わせているけれど、基本が「いい子ちゃん」なのだ。

 それ自体は悪いことではない。ただライチが「私は邪悪だ」という前提でわたしの前に立ち、いい子ちゃん発言をせず正直な気持ちや考えを語ってくれることで、わたしは普段無意識のうちに被っている優等生仮面を自然と外すことができる。

 嫌いな人は嫌いでいい。自分を卑下しなくていい。自分の中に気が合わない人たちのことを「つまらない奴だ」と思う気持ちがあったっていい。ともすると、気が合わない人にまで自分を合わせようとして自己卑下しがちなわたしのような人間には、ライチのような存在はとてもありがたい。

 「自分は邪悪だ」と仮定することは、ある程度自分を直視しないとできない。わたしたちは社会で生きる中でなんとなく「いい人」の側面を前に押し出すよう社会から要請されているとわたしはしばしば感じるのだけれど、もっと率直に自分を観察し、ライチのように自分の邪悪な側面を認めることができれば、素直にいじわるな部分をさらけ出すことができるのかもしれない。

 ライチは自分を「邪悪」という立場に置くことで、優等生を演じるわたしにそういう気づきをくれた。なんて優しい人なんだろうか。自分が嫌われたくないばかりに自分のために人に優しくし(別にそれ自体は悪いことじゃないのだが)、さらにそれを人のためだと信じ込んでいる人よりずっとずっと優しい人だとわたしは感じた。ありがとう、ライチ。

あわいにはこうしたかけがえのない他者との邂逅がある。彼彼女らと出会い、コミュニケーションを重ねることで、自分がいつの間にか着込んでしまった鎧を脱ぐ瞬間がこれまでいくつかあった。そういったことをまた時々書いていきたい。