日々の記録から-2023年1月

▶1日
散歩中、息子が「ぼくが鳥だったらなぁ」と言う。いつの間にかスキップができるようになっている。空にはお正月らしい雲が出ていた。

▶2日
体力3カ年計画で、今年は仕事より何より体力をつけて、3年後にはもっと稼げる・書ける体力をつけるぞー!という心持ち。そういう抱負を書いた

夜、息子を寝かしつけた後、一人でゆっくり湯船に浸かっていたら、人の足音が聞こえてきた。「鍵を閉め忘れたかなぁ」「泥棒かなぁ」「息子は大丈夫かなぁ」「泥棒なわけないか」などと考えていたら、風呂のドアがばたりと開いて、息子が「ママ何してると。言って行ってよ」と怒っていた。

▶4日
平和と安全保障について、どう考えたらいいのか、何からアプローチしたらいいのか分からず、あわいのメンバーと話した。足りない頭とリソースをこうして人に補ってもらいつつ、わたしなりに知の歩みを重ねるしかない。一方で、わたしは「一市民」であって、その一市民が考えることは、たとえそれが稚拙だろうと、大事なことだ、と信じている。

▶5日
散歩中、アオジかなにかの小鳥を見かけた。

▶6日
散歩中、エナガを見かけた。かわいい。自然の中を歩くことは、部屋でパソコンの画面を見つめているのとはまったく異質で気持ちよく、癒しを感じる。
仕事でエッセイを書いているけれど、苦戦している。書くことは限定することで、なのに小さく閉じないようなものが書けたならいいのに。

▶7日
4月から通信制大学で社会福祉士の資格取得を目指すことにした。さらに必要と思えば、お金を貯めて大学院に行くのもまた良し。それとは別に、いつか人文系大学で学び直したいという気持ちも持っておく。

▶8日
わたしは饒舌にならなくていいのかもしれない。むしろこの言葉にならない胸のもやもやを大事にして、いつか書き言葉として出す、そういうことをしていったらいいのだろう。しかし言うは易し、形にするのは難しい。
わたしにとって実家はいつでも帰れる場所ではないけれど、大人になった息子が公園で寝たりすることのないように、息子にとってわたしはいつでも帰れるところでありたい。

▶9日
雄弁であること、あるいは書き言葉で言えば「書くこと」にばかり目がいきがちだけれど、語らないことあるいは「書かないこと」で想起させるもの、にまで意識を持っていけるようになったらいいなと思う。

息子「プーさんのお鼻はいいよなぁ。プーさんみたいなお鼻になりたいなぁ」
わたし「どんなお鼻かね」
息子「茶色いお鼻」
わたし「あした朝起きたらプーさんみたいなお鼻になってるようにママが祈っとくね。そしたらなれるかも」
息子「おうちで?学校で?」
わたし「両方だよ」
息子「やっぱやーめた。ふつうのお鼻がいいや」

▶11日
2万歩以上歩いた。突然2万歩歩いた自分が滑稽で笑える。

▶12日
鳥はかわいい。
昼休憩時に15分寝るのをやり始めて思うんだけれど、「眠れない」と思っていても、じっと目をつむって横になっていたら意識が遠のいて「休まっている」ときがたしかにある。

▶14日
わたしはしばしば「病を得る」という言葉を使うのだけれど、それはいったいどういうことなんだろう。「病気になった」ではなく、「病を得た」。古川日出男さんの言うように、書くことはこの世に生きながら彼岸を目指すことなのであれば、書くことと病を得ることは共通点があると思う。病もまた、この世に生きながらあの世に少し近づく体験であり、死をからだに取り込む体験である。からだのなかに生と死が混ざり合ってぽこぽこと沸き立っているイメージだ。

子育ての楽しみや苦しみを共有するパートナーがいない、という痛みがわたしの中に今もたしかにある。それは永遠に埋められるものではなく、それでいいと思っているけれど、それでもたしかな痛みであり、それを自覚しておく必要がわたしにはある。

▶17日
わたしが精神科通院をするととても消耗するのは、自分の心の森に入って見えるものを語る作業をする(ときもある)からかもしれない。生活していくためには、森の外にいる必要がある。でなければ、日常の雑事をこなすことができないからだ。だけれど、心が危機にさらされたとき、わたしは自動的に森に入ることになる。森の中には獰猛な獣だっているから食われてしまうかもしれないのに。抜け道が分からなくなって迷い込んでしまうかもしれないのに。診察室では、その森に再び分け入り、そこで見たことや感じたことを語る。その作業が苦しさを伴うのは、ある意味当然なのだ。

▶18日
自分のことばを持っている人を見るとそれが羨ましくなるし、世界をその人の見方で見ている人を見るとうれしくなってしまう。世界はわたしが思っているより広いんだ、ということを知る。

▶19日
ただ生きていさえすればいいということと、でも自分はできればもちょっとがんばりたいことは両立するし、「もちょっとがんばる」ことが「生きる」を持続させる力であったりもする。だけれど、それを他人にも求めるのは違う。

▶20日
「うちの息子は発達障害があって」と言うのはアウティングに入るのか? という問いで、あわいのメンバーと話した。
放課後デイや学校、医療機関など守秘義務の生じる場で話す場合、または「発達障害のある子を持つ親の会」などそれが前提となって設定された場で話す場合、これは支援を得る意味でも必要だし、問題がないと言っていいと思う。
一方で、わたしの場合であればSNSやブログで書く場合、これは慎重になるべきで、子ども(相手)の権利を尊重したい。そこにはグラデーションがあって、相手との信頼関係に基づいて同意を得たり、同意を得ずとも相手が特定されない形で表現したり、時と場合に応じたさまざまなやり方がある。近い関係であればあるほど、「自分と他人は別の人間である」ことに自覚的である必要もある。
発達障害に限らず、自分と相手の話題として第三者について話すときに、同意を得るあるいは配慮する、それをなしにベラベラ喋らないことは基本のマナーとしてある。話し方についても一定の工夫ができる。
こうして人と話して考えた「わたしのスタンス」をほかの人にも適用できるわけではない。できることがあるとすれば、ほかの人はどう思うか聞いて、わたしはこう思う、と話し合うこと。
書いたりなんらか発信するときに、書く内容を精査する、リスクや問題を想像して配慮したりすることをした上で、最終的に結果を引き受ける覚悟をする、腹を括ることも大事である。

▶23日
わたしは「すごい本に出会った」と感じたとき、それがなぜなのかをうまく言語化できないのだけれど、そういうものを書いてみたいのだろうな。たとえば生活のエッセイを書いて、「ほのぼのしました」とか、そういうのもうれしいけれど、もっと感情が揺さぶられたり、言語化しづらい複雑な感覚が芽生えたりするようなものを生み出してみたい、という「理想」がある。

▶24日
わたしは自分の内面を掘り下げることで外を発見する「内外タイプ」の書き手であって、自分の外にあるものを描くために自分の内にあるものも使う「外内タイプ」とは異なるから、それなりのアプローチをしなければならないことがようやく納得できた。それはコインの表裏のような話だと思うけれど、自分がどっちであるか知ることが手はじめにはなると思う。要するにわたしはナルシシズムの強い書き手なんだと思う。しかしそれを人が読むに堪えるものにしなければ読まれない、という単純な話。

▶27日
書きたいものがあって、それを通して何が言いたいかなんて、まだ分からないことだけれど、焦らないで書き進めたらいいし、そのプロセスをこそ楽しんだらいいのだろう。
「きょうもがんばったな」と自分を労わると同時に「きょうもたのしんだな」と振り返られるような日々を送りたい。

▶31日

似ていない悲しい人体模型から小さなタンバリンを抜きとる(平岡直子)

すごくいいなと思った。