▶2日
活動をするなかでいわゆる「まちづくり」に関心を持っていた時期があったけれど、今はその熱は冷めて、関心がスライドしていっている感がある。とはいえわたしが関心のある、いわゆる福祉や教育と呼ばれる領域もまちづくりとは無関係ではないどころか、大いに関係がある。だから、まちづくりに全く関心がなくなったわけではないし、ある意味関心を持ち続けていると言える。「まち」の課題に主眼を置いた社会課題と呼ばれるものたちよりも、「ひと」に主眼を置いた結果その人たちが住むまちをより良くすることにつながる、ということに関心があるのだと思う。とはいえその二つは切り分けられるものではない。わたしはさまざまな意味での「社会課題」にかかわることが多いので、この辺のモヤモヤを言語化していくのは大事だと思う。ちなみに社会課題という言葉はなんとなくあまり好きではないけれど、便宜上使っている。
ぽんかん大好きお化けことわたくし。
▶3日
節分。河津桜のつぼみが膨らんでいる。
▶6日
冬のセイタカアワダチソウは、枯れて茎が木の枝のようになる。区の清掃で息子とそれをポキポキ折ってまわった。けっこう硬いが、枝の端を足で踏み、もう片方の端を手で持ち上げると簡単に折ることができる。息子はそれが楽しいようで、上手にお手伝いしてくれた。オクラもそうだけど、木の枝のように茎が成長する草もあるんだな。
だれかのためになる、というのは意図してするものではなく、無自覚のうちに結果的にそうなることもある、くらいのことなのかもしれない。吉野弘の「生命は」という詩を思い出す。わたしもあるときはだれかのための虻で、あるときは風となることもあるのかもしれない。
▶8日
雨が降った翌朝は、まちに湿気が満ちている。いや、湿気がまちを満たしているのか。
▶9日
仕事前に15分、松村圭一郎『小さき者たちの』を読む。今日は「いのち」「まじわる」を読み、たくさん涙が出た。
スーパーで赤なまこを買ってきた!大好物。
▶11日
わたし自身も「小さき者」の一人で、文中の人びとに自分を重ねたからこそ『小さき者たちの』を読んで涙したのだと思う。わたしたちはどうしても国や大きなものに翻弄されて生きるしかない部分もある。でも果たしてほんとうにそうであろうか?「市民」こそ力を持っていると信じたいし、持たねばならないのではないか。しかしそれには多大な労力がかかることは昨年学んだことの一つであり、いざというときに市民としての力(行政の言うところの「市民力」ではなく)を発揮できるような生き方を工夫することもまた賢い選択なのかもしれない。
わたしは今大事な変わり目にいると思う。人間関係もそうで、だれかを嫌いになったとか縁が切れるとかじゃないのだけれど、自分の時間の使い方を決めたことで、自然とこれまで共に過ごす時間が長かった友人と会う機会が減ったり、一定の時間や資源以上はこの人には割くことができないなと思ったりすることが出てきた。それはきっとお互いそうだし、悪いことじゃない。ただ蜜月の時が過ぎたのかもしれないし、それを寂しく思う人がいるのは当然のことだと思う。
▶12日
樹齢200年の梅を見てきた。
社会問題を語るとき、自分を正義の側に置くのではなく、自分も加担していやしないか?と自問することを忘れてはならない。
▶14日
カツオのタタキ、実はそこまで好物じゃない。ただ、うちの父は大好物。きのう病院近くのスーパー(魚が新鮮で安い)で宮崎は川南産の本ガツオが安く売られているのを見つけたとき、すぐに母にLINEした。母もそんなに好きではない。だから、わたしはもう二度と会わないと決めている父のことをやっぱり心のどこかで気にかけているんだと思う。それできっと十分。
▶16日
息子が乳幼児の頃は孤独感が強かった。その頃に比べると今は安定した気がする。
▶17日
ジョウビタキを見た。かわいい。
▶19日
寝かしつけ前に『エルマーのぼうけん』の読み聞かせをはじめた。
最近のわたしは「恋愛しなくていい」に落ち着いていて、それは平穏で幸せ。ただ寂しがり屋なので、息子がいつか家を出たらそのときはパートナーが欲しい。
▶21日
テーマでも一場面でもなんでもいいから、描きたいものがあって、とりあえず書きはじめる。書き進めながら考えるという書き方があっていいと思うし、それは楽しい。
▶22日
メジロを見かけた。
▶25日
息子、インフルエンザにかかる。はたして私は感染せずにサバイブできるのか。
▶26日
喉が痛い。頭が痛い。発熱。
▶27日
コロナ陰性、インフルエンザA型陽性。
▶28日
息子が「ぼくの足はインフルエンザじゃないよ」と言うので、「〇〇くんがインフルエンザなら足もそうじゃないの?」と尋ねたら、「足に触ってもインフルエンザにはなりませーん。インフルエンザっていうのは口や鼻やそういうところから感染しまーす」と正しく理解していて感心した。