家から保育園へは、まっすぐ行けば2分とかからない近さなのだが、ムスコはあっちへこっちへ寄り道・冒険・宝探ししながら、5分、10分かけてマイペースにゆく(僕のように時間のことなど考えていないだろう)。すべての朝は、新しい。
「中年」のはじまりはいつかというと、人生において、増えるもの、得るものよりも、減るもの、失うものの存在感が上回ったときなのかもしれない。
箱を開けるまで生きている状態と死んでいる状態が重なっているなどと、シュレディンガーの猫がいることにしてしまいたいけど、そんなことを考える、願うようなことは、だいたい既に、失われているのである。一つひとつ順番に箱を開けてその事実を確認していくのが「余生」のおしごとではないか。
喪失の指差し確認。
痛みのあとに安堵がやってくる。喪失が確定した分、余白が生まれるからである。
駅前の喫茶店でキャンパスノートに文字をうねうねと歩かせる。終わりのページに至ったのでコンビニで新しいのを買う。
帰り道、学童から帰るムスメとツマに追いついて一緒に家まで。ツマが今年はじめての蝉の抜け殻を見つける。
二人は先に家に帰り、僕はムスコを迎えに保育園へ。また、朝と同じくあっちへこっちへしながら帰る。