ライターの下積みとして、先輩ライターの文字起こしを行う慣習がある。私も過去に、先輩ライターの文字起こしや構成を仕事として請け負っていた。あるときは原稿ドラフト(下書き)まで担ったこともある。初めて原稿ドラフトを依頼された時は、「そこまで外注するのか」と驚いた。
驚くと同時に、個人間の仕事ながらも、「仕組み」をうまく作っていることに感心した。諸々の工程を外注することによって浮いた時間で本を読み、情報をリサーチし、より質の高い記事を書くことができる。要はお金で時間を買ったわけだ。
これはたまたま個人間での契約だったけれど、メディアにおいて、構成を書く人、初稿を書く人、編集をする人と、チームを組んで記事を作るのは一般的だ。それに、原稿を発注した側からすれば、結果的に記事が納品される、それも良質な記事が納品されれば、それまでの工程を誰が担おうと、問題ないはずだ。
私はそのような仕組みを作ることすら考えたこともなかった。私にとって「原稿を書くことは一人でやること」という固定観念があったのだと思う。無意識裡に「書くこと」を「聖域」にして、「一人でやらなきゃ」と考えてしまっていた。しかし、一人ですべての工程を担うことにこだわらず、結果として「良い記事を作る」ことに焦点をあてれば、そういう発想も出てくるわけだ。
個人で書くことが一般的だと思われている小説でさえ、チーム戦で書くことがある。たとえば『白い巨塔』や『華麗なる一族』で知られる山崎豊子は、たくさんの人を雇って資料にあたり、小説を書いていたと聞いたことがある。小説に限らず、アニメや漫画、映画もチーム戦がほとんどだろう。そう考えると、「書く」という営みはどこまで個人的なものなのだろうかという疑問が湧いてくる。
そんなことをあわいのslackでつぶやいていたら、友人が、重い障害で話すことも書くこともできない研究者、天畠大輔さんに関する記事を紹介してくれた。天畠さんは、通訳介助者が先読みする手法に助けられながら論文を書き、「どこまでが自分の意見なのか?」と悩んだのだという。この記事にこういう文章が出てくる。
他者が入り込んでこない、純粋に「自分オリジナル」な思考や言葉なんてものがあるのだろうか? 私たちは話す相手や過去に知り合った人たちの影響を受けて、「自分の言葉」を生み出していく。
私たちは文章を書くとき、それを「自分が書いたもの」と思って、他人に赤入れ(校正などの際に主に赤字で文章を添削、書き入れすること)されることを嫌うこともあるけれど、そもそもそこに綴られた思考や言葉が「自分オリジナル」だと言いきれるのか、と問われた気がした。
いったい私たちはなんのために書くのだろうか。「自分(だけ)の作品を作りたい」のか。チームで「いいものを作りたい、世に出したい」のか。自分の作品を作るにしても、たとえば出版社で本を出すには、個人では完結しない。編集者や校閲者といった、たくさんの人が関わる。「自分(だけ)の作品を作ること」と「チームでいいものを作ること」はきっぱりと分かれるものではなく、グラデーションがあるものに思えてくる。
なんのために書くかを考えることは、長い歴史のなかで自分にはどういう仕事ができるかを考えることにつながる。まだ為されていない仕事は何か、先行研究を知り、その上で自分の為すべきこと、やりたいことは何かを考える。もしくは、やりたいことありきで、そのテーマで為されていない仕事を探る。
作品は必ずしも一人で作るものではない。それを念頭に置いた上で、今後私はまず、今まで一人で全工程を担っていたインタビューライティングのうち、文字起こしだけでも外注してみようかと思う。