ただ餃子を選んだわけではない

食べることが好きじゃない。

私が中学生のときから好きなミュージシャンの小室哲哉も、かつて、食べることに関心がなくて、1日の食事がカプセルを飲んで済むならそれでいいといったような発言をしていたが、私も同じだ。

なので、私が食べるものというのはルーティンだ。
アレルギー体質もあるので、食べて身体が大丈夫だったものが、私の食生活のルーティン入り。ちなみに最初にアレルギーで食べられなくなったものは、えび、かに。それから検査をして発覚した、まぐろ。さらにそこから、玉ねぎ、桃といった具合に食べると身体が苦しむものが年々増えていき、私の人生には「それを食べたら死にます」の食材が多い。

子供の頃は、給食が苦痛でたまらなかった。
全部食べられなくて、掃除の時間も、午後の5時間目の授業になっても食べ終えることができずに、先生の教卓に移動させられて、机に給食を載せられて、食べるまで許されなかった。結局、帰りの時間まで食べられずに、先生がもういいわとあきらめるまで、何度もこういったことが続いたものだから、このとき食べられなかった食材にはつらい思い出しかないので、未だに食べられない。

そんな私が積極的に食べることがあるのは、
人が死んだときだ。

きっかけは、6年前に親友が急死したとき。
毎日のようにLINEで話していた親友。前日の夜遅くも、「また明日ね」と会話を終えたら、次の日に突然心臓の病気で亡くなった。「また明日ね」は来なかった。

訃報を知った日は、何が起こっているのか全くわからずに、親友がいた現実に触れたくて、大好きなバンドのライブを一緒に観た帰りに食べたラーメン屋さんに行って、ラーメンを食べた。

そこからしばらく食べられなくなった。
喪失のショックは、食欲を確実に奪っていった。

気がつけば、ベッドの上で動けなくなるくらい衰弱していることを実感したので、ある日、意を決して食べた。ここで私までそちらの世界に連れていかれてしまっては、親友が悲しむ。
だから、食べた。

以来、「人が死んだら、まず食べる」を自分の掟にした。

2020年4月。今から2年前。
父親が危篤のとき。父は一人暮らしで、在宅医療を受けていた。訪問看護師からの連絡を受けて、家に着いて、父と私しかいない二人だけの部屋。私はいつどうなるかわからないけど、先が長くなるかもしれないと思って、危篤と言われてベッドに横たわっている父の横で、ざるそばを食べた。さるそばを食べたのは、父が具合が悪い時でも食べられていた、父が好きなものだったから。

これが病院だったら、心音などが計測された機械と共に緊張感がある場面なんだろうけど。在宅医療なので、父の家だからこそできたことだろうなと今になって思う。

とにかく私は、今にも死にそうな父親を目の前にしながら、ざるそばを食べていた。

そして、日付が変わった夜中に父は旅立った。
葬儀の準備などを終えて、一度、自分の家に帰る途中で、新宿、歌舞伎町にある餃子の王将に行って、餃子をテイクアウトして、食べた。

父が関西出身だったので、餃子の王将は小さい頃から私にとっても馴染みがあった。父が末期がんだとわかったときから、父と私は歌舞伎町でよく呑んでいた。

2022年4月。
私がラジオDJとして仕事をしてきた人生の中で、大切な仲間の一人が旅立った。
その訃報を知って、連絡を取るべき人に連絡を取り終えた私は、近くの中華料理店に入って、餃子定食を食べた。

翌日の朝、その死にショックを受けた友人から、「食べるって大事だな」という一言がLINEで届いた。友人には、私が訃報を知って、まず食べたことを話していた。友人はすっかりものが食べられなくなっていた。

食べないと死ぬ。
それは、末期がんの父を見ていて、私が1番学んだことでもあった。

大切な誰かが死んだとき。
私たちは、彼らが悲しまないように、生きる必要がある。

そのために私は食べる。
食べることはちっとも好きではないけれど、私はあなたのために、食べるよ。

写真:Kiyoko Takemura