社交のための食事

私は食事が嫌いで、食事が好きだ。

人間は他の生き物と同様に、食べなければ生きていけない。1日2日食べないくらいで死にはしないけれど、お腹は空くしパフォーマンスは落ちる。基本的には「毎日食事をする」生き物として設計されているのだろう。
現代日本の生活様式では一日3回の食事がスタンダードになっている。私はこの一日三回の食事が、つらい。
メンタルの調子を崩してからというもの、朝と呼べる時間に起きるのがつらくて、食事を取ろうとしても胃が受け付けないことがとても多い。
ようやく昼頃にもそもそ起きてきても、食欲が湧かない。
調子の上がってくる夜も、食事の用意をして食べるのがとても面倒くさい。
つまるところ、私は「生命活動のために食事」をしたくないのである。

「社交のための食事」は、一人では成り立たない。
人は社交の場に食べ物を用意する。コミュニケーションの一環として、飲食を共にする。場合によってはアルコールが主の場合もあるけれど、それも含めて私は「社交のための食事」であると思う。
例えば、来客の際にそこに少しのお茶請けがあるだけで場が少し和んだりするし、うるさい居酒屋で友人と飲むときには、普段はできないような話ができたりする。
私は、この他人と食べ物を囲む時間がとても好きだ。

食べるということについて、私の中で真っ向から反対するこの二つの気持ちが同居しているのはどうしてだろうと考える。すると、私の家庭環境と実家から出た頃の思い出がよぎる。
私の家族は兄弟が多く、割と成長した後も「夕食はみんなで囲む」というのが、決まり事ではないにしろ暗黙の了解のようになっていた。
学生時代に外食して帰ることも多かったけれど、そういう時は友達とファーストフードを囲んでいることがほとんどだった。他愛のない馬鹿な話をしながらポテトやナゲットをつまむ時間は、青春の一ページだ。
親戚同士の付き合いも多く、それこそ「社交としての食事」として、親戚づきあいの食事の場によく参加しており、その時間がとても好きだった。夏休みに帰省するたびに親の地元の親戚と必ずバーベキューをしていたのだけれど、長女の私はその時に歳上の親戚に可愛がってもらえるのがとても嬉しかったのを覚えている。その習慣は、大人になっても続いていて、帰省する時の楽しみのひとつになっている。

私にとって、実家を出るまでは食事というものは、ほとんど「社交としての食事」しか存在しなかったのである。もちろん当時にとっていた食事にも「生命活動としての食事」の側面はあったし、一人で「生命活動としての食事」をすることもあった。でも、当時の私はそんな分類について考える必要はなかったのだ。

食事をすることをつらいと思ったのは、実家を離れてのことだった。
親戚の家に居候してはいたものの、ほとんど一人暮らしのような生活になっていた当時、気づけば食事をとるのがとても億劫に感じられるようになった。
後から考えれば、この時からほとんどの食事を私はひとりで取らなければならなくなった。そこに加え学業の思い通りにいかなさとアルバイトのブラックさで私は精神を病んでいく。
「食べなければいけない」という強迫観念に駆られてコンビニの中をぐるぐる歩き回りながら、食べたいものが見つからなくて泣いていたこともある。
今も、私にとってひとりでの食事、「生命活動のための食事」は、少しつらいものだ。

それを当時救ってくれたのは、ゲーム実況だった。
私が実家を出た頃は動画サイトでゲーム実況が流行り始めたころで、4人組のとても賑やかな、うるさいくらいに喋りながらゲームをする動画が人気だった。仲の良い友達同士で、ただ楽しく、協力したり意味もなく妨害したりする動画。
私は食事をする時、毎日その4人の動画を見るようになった。
初めは、ランキングに上がっていたマリオの動画。それも毎日更新されるわけではないので、最新まで見てしまったら、お気に入りの回を見返した。その内他の動画も見たくなって、過去のゲーム実況を見漁った。幸い、長く活動していた彼らは過去動画もたくさんあった。私は時にゾンビを撃ちまくる動画を見ながらご飯を食べたりしていた。
4人の声を聞いていると、食べ物を飲み下すのが少し楽だった。味気のない食事が、少し美味しく感じた。動画を見るのが楽しみで、それに付随する食事のことも少し楽しみにすることができた。
私は動画を見ながら食事をとることで、他者とコミュニケーションをとりながら食べる、「社交のための食事」を疑似体験していたように思う。

それに気付いてからは、少し生きやすくなった。ひとりで食べれないのであれば、遠隔でもなんでも「誰か」と食事をすればいいのだ。
頻繁に友人と食事に行ったり、ネットで知り合った人と通話を繋げながら食事をしたり、動画を見たり。そうすることで私は直接的に、もしくは疑似的に「社交のための食事」をすることを覚えた。
おかげで、一日一食はほとんど毎日食べられるようになった。ゼリーと野菜ジュースで生きていた頃を思えば大きな進歩だ。

「生命活動としての食事」が好きな人もいることを知っている。食べることそのものに楽しみや幸せを感じる人だ。
そういう人と食事をするのが、私はとても好きだ。
食べ物一口一口を幸せそうに頬張るのを見ると、自分の食べるものも美味しく感じるし、何より一緒にいるのが楽しくなる。
私も友達と何かを食べる時に、「幸せそうに食べるね」と言われたことがある。私だっておいしいものを食べるのは好きだけれど、幸せそうに見えたのなら、それはきっと、その友人と食べるという「社交」を食べている私なのだと思う。
気付けていなかった時には言えなかった、「あなたとだから幸せなんだよ」という言葉を、もっと伝えられる人間になれたらいいなと思う。