禁じられた10代

「病」といっても様々な捉え方があるが、私は身体の機能を脅かし、命を奪うことがある「病気」について書こうと思う。

ラジオのDJを目指したときに、オーディションに提出する書類に健康面を書く欄があり、少しためらいながら「健康」と記入した。「健康」と書かなかったらはじかれることは間違いないと思ったからだ。当時私は「健康」ではあったが、大きな病気の治療を終えたばかりだった。

14歳のとき、学校の健康診断をきっかけに、腎臓の病気「ネフローゼ症候群」に罹っていることがわかった。

その瞬間からあらゆることが一変した。
両親は腎臓の病気を治療するために良い病院を探した。
私はバスケットボール部の部活動はもちろん、体育は見学、日常生活で走ることも止められた。
血がサラサラになる薬を飲んでいたので、怪我には十分注意すること、食事は減塩など、生活での様々な「禁止」事項が増えた。

私はその頃、走るスピードが速かった。
学校の山登りでもトップ3に入るほど、誰よりも先に頂上を目指して元気に歩いていた。
はっきりとした自覚症状を感じていなかったので、私は自分が指定難病といわれる病気だということに心底驚いていた。
学校の先生から「あんなに元気に走っていた武村さんが・・・」と涙ながらに語りかけられたときに、私はそんなに悪い病気なんだと思ったほどだ。

当時私は中学3年生。高校受験の年だ。
夏休みは塾に通ったりするころに、私は病気がどれだけ進行しているかの検査の入院をしていた。腎臓に直接針を刺して組織を取る腎生検は、一度で上手くいかずに二度も針を刺されたことが痛くてたまらずに、泣き叫んだことを今でも覚えている。

検査の結果を踏まえて、治療が始まった。
プレドニンといわれる合成副腎皮質ホルモン製剤、ステロイド剤を飲む生活が何年も続いた。この薬の副作用で顔が丸くなるムーンフェイスという症状がで出て、それまで逆三角形のような顔だった私は、二重顎の線が出るまん丸な顔になった。
(薬を終えると症状は自然に治まってくるといわれているが、私の場合は、薬を飲む前の顔の形には完全には戻らなかった)

薬の服用だけでなく、毎日の尿検査に通院など治療は続き、結局「寛解」してから「完治」と言われたのは、20歳になってから。つまり、14歳から20歳まで私の生活には「ネフローゼ症候群」があった。

10代という時代がほぼ病気だったということは、今にいたるまで影響を及ぼしている。

この病気はとにかく疲れやすくなるため、私が疲れると親は常に心配している。常に「再発」に気をつけて、くれぐれも「無理」をしない生活というのを心がけてきた。しかし、フリーランスのラジオDJになってからはそうも言っていられないので、休まずに働きつづけ、随分身体を痛めつけてしまったのも本当のところだ。そのことは、50代が近づく今、十分反省して、意識的に「休む」生活を再構築している。

そして、私は、健康診断で重篤な病気が見つかったので、健康診断や検診、検査、病院への早めの受診を何よりも大事に考えている。周りで、定期的な検診を受けていない人がいると心配になってしまうほどに。

10代で病気と共に生きるという時間を過ごしていなかったら、きっと私は自分の身体に無自覚なまま、自分のやりたいこと、実現したいことだけを考えて生きていただろう。

病というのもまた、私という人間を形成している。

写真:Kiyoko Takemura