相模原障害者施設殺傷事件から6年が経ち、画面に流れてきた報道や論説を目にし、3年前に書き記したものを、ネットの片隅に置いておくことにした。同事件から3年の2019年7月26日に、当時連載していた「Yahoo!ニュース個人」で公開した記事である(契約終了に伴い記事の公開も終了)。
「役に立つ人」「役に立たない人」を線引きし、後者に当たるとした施設利用者を「生きていても意味がない」と、実に身勝手で軽薄な判断によって殺害した植松氏の「思想」に社会全体で抗う方略として、以下2つを同記事で提示した。
1: 障害のある人たちの多様な生のありようを「実例」として示し続け、無知ゆえの偏見を覆していくこと
2: 「生産性」の有無によって人をジャッジするという植松の土俵に、そもそも乗らないこと。ただ「殺すな、生きさせろ」と言い続けること
植松聖被告への死刑判決の確定、やまゆり園のその後、残された被害者ご遺族の方々……事件の「当事者」を取り巻く具体的な出来事、状況に対して、この場で何かを新たに書くことはしない。
ただ、この論説に若干の補遺を記すとしたら、1と2を両方やらなければならないといってもそれはイーブンではなく、何よりも第一に、徹底的に、揺らぐことなく、2を主張し続けるべきだ、と強調しておきたい。
植松を犯行に至らしめた背景要因のひとつであるかもしれない、障害者入所施設そのものの問題(障害者を地域から隔離し、職員が利用者を見下し虐待しうる閉鎖的な環境になりやすいこと)は、ずっと言われてきていることであり、変えていくべきではあるが、ここでのフォーカスは別のところにある。「生産性」に囚われる「呪い」を引き起こす社会構造を問題視し、それに自分たちも影響されてしまっていることへの真面目な、謙虚な「内省」は、一定必要なのだろうけれど、神妙な顔をして「私たちにも内なる植松が……」などと語ってしまうこと自体が、その呪いを再認識させ、温存させてしまうのではないか。
植松個人の「思想」はあまりにも浅はかである。その「思想」に則って人を差別し、障害者を標的とした殺人という悪を行った。そして法の裁きが下された。それ以上でもそれ以下でもない。植松を何か「強大」な思想犯かのように扱い、相手をする必要はない。「生産性」の呪いなるものについて、私たちが個人レベルで色々な逡巡や葛藤をすることはあるだろうが、パブリックには、ただ植松の「思想」と行為にNOを突きつけ、「生産性」なるものとはまったく関係なく、私たちはただ、「生きていい」ということを確認し、言うだけで良い。3年経った現在の私が、事件をめぐる報道や論説に漂うムードに対して、当時の記事に付け加えて強調したいのは、そのことである。
以下、「Yahoo!ニュース個人」連載記事の再掲。構成、論旨は公開当時のものを維持しているが、より読みやすく、また論旨をより適切に伝えるための細かな語彙選択・文末表現修正など、若干の校正を加えた。
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「生産性」の呪いに抗うために - 相模原殺傷事件から3年
Yahoo!ニュース個人, 公開日時: 2019-07-26 09:30:49
津久井やまゆり園の事件から3年、地域で、司法で起こっていること
7月26日、相模原市の「津久井やまゆり園」で、障害のある入所者19人が殺害され職員を含む27人が負傷した事件から、3年が経過します。事件が起こった津久井やまゆり園は、現地での再建の方針を取り、施設で過ごすのか、地域で暮らすのか、入所者120人への意思確認が進められています。殺傷事件の実行者である植松被告の初公判は来年2020年の1月8日(横浜地裁)と決定しました。残された遺族の方々の痛みや悲しみ、入所者の今後の暮らしの選択、司法の場での審判、何一つ「終わった」とは言えない状況で、事件そのものについて、遺族や入所者、被告個々人について、何かを語ることはとても難しい。それでも3年が経った今日、何か語るとしたならば、ひとつ確かに向き合わなければならないのは、事件が私たちの生きる社会に投げかけた、「生産性」を巡る問いについてです。
誰もが「生産性」を問われる時代の圧力に抗うために
植松被告は、障害や認知症のある人など、(それはあくまで彼から見てですが)意思疎通がとれない人のことを「心失者(しんしつしゃ)」と呼び、彼らのめんどうを見ている場合ではない、生きていても意味がないと、彼の判断によって、他者の命の線引きをしました。
彼の主張と行動に対して、一人の記者が正面から向き合った様子が、5月19日の「NEWS 23」で放送されました。福岡のテレビ局の記者、神戸金史(かんべ・かねぶみ)さんのドキュメンタリーです。息子さんのひとりである金佑(かねすけ)さんにも、重度の自閉症と知的障害があります(参考: NEWS 23 「なぜ障害者ばかりを?相模原殺傷 被告との対話」【前編】 【後編】)。
番組では、手紙でのやり取りと面会を通して
・植松被告が「役に立つ人」と「役に立たない人」の間に線を引いていること
・線引きをした植松被告が自分自身のことも「大して存在価値がない人間」だと思っていたこと
・事件を起こしたことで「役に立つ人」の側に立ったと考えていること
などがあぶり出されます。また、植松被告自身も生活保護を受けていたことがある過去に触れ、「生産性」の証明を求められる時代の圧力の中で「彼自身も存在の危機の中に生きていたのではないか」という分析がなされました。
これらの背景をもって植松被告の行為を免罪するべきとは私は思いません。しかし、植松被告個人の考えにとどまらず、また障害者・健常者という区分けによらず、現代を生きる人々の多くが、「生産性」で自分の価値を測られるのではないかという「時代の圧力」にさらされていることは、おそらく確かだろうと思います。
筆者は、障害のある方の就労支援や子どもの発達支援を行う企業に勤める傍ら、個人でのインタビュー・文筆活動も行い、障害のある方や子どもたち、そのご家族、彼らを支援する人とかかわり、多様な人が共に生きる地域社会・コミュニティの実践を見てきました。そこで経験してきたことも思い起こしながら、私たちの社会に覆いかぶさる「生産性」の呪いに抗うための2つの方略を提示したいと思います。
1つは、植松被告のように「彼らは生産性がない」と障害者をジャッジする、無知ゆえの偏見をはがしていくこと、障害のある人を含め多様な人が「共に生きる」実例を示し、広げていくことです。
もう1つは、そもそも「生産性」を巡る議論の土台に乗らないこと、「生産性」を基準としたあらゆる生の線引きを拒絶し、ただ「殺すな」と言い続けることです。
1: 多様な生のありようを「事実」として示し、「無知」ゆえの偏見をほぐしていくこと
ここで当たり前の事実を確認しておきたいのですが、障害の有無にかかわらず、私たち一人ひとりは、みな多様な、誰一人同じでない心身の特徴や人生の歴史を持って生きています。たとえば「知的障害」という、同じラベルを付与された人たちがいるとしても、その人たち一人ひとりの体格や性格、趣味嗜好、生活環境や人間関係、知的障害の程度や、獲得してきたスキル、日々の生活で生じる困難さはさまざまです。
ところが、「そもそも人は多様である」という当たり前の事実も、「施設の中にいる重度障害者」と括ってしまうことで見えにくくなってしまうのです。障害福祉業界では、大型施設による入所型の支援から、地域社会への移行が長く主張されて、また実際に地域移行が進められてきました。津久井やまゆり園をはじめとする入所型施設の存在意義自体は否定しません。しかし、障害のある人とない人が、地域の中で当たり前に出会い、交わる環境をつくっていかなければ、「障害者は生産性がない」といった偏見のアップデートはなかなか進んでいかないでしょう。
そして実際に、多様な人たちが行き交う地域に開かれた施設を実現している事例、比較的重度と言われる障害のある人が、支援を受けながら地域での自立生活や企業等での就労を実現している事例が、実はすでにたくさんあるということは、もっと知られるべきだと思います。
「役に立たない」「生きていても仕方ない」という植松被告のような決めつけに対して、「こんなふうにみんな生きている、暮らしていけるんだ」というリアルな反例を示し、広げていくことが必要です。そしてそのためには何よりも本人の意思を知ろうとし、意思に基づく行動を支援するという姿勢が大切です。上で紹介した「NEWS 23」でも、神戸記者の息子・金佑さんが、重度の自閉症と知的障害がありながらも自分のペースで成長し、働いてお金を貯め、自分の意思でスマートフォンを購入するに至ったエピソードが紹介されています。
人はちがう、そして、それぞれに変わっていき、幸福を追求できる。そんな当たり前の事実を、より具体的に示していく。障害の有無や程度だけでもって「生産性がない」と断定する無知や偏見に抗う。メディアや企業、地域社会……現代を生きる私たちがあらゆる領域でそうした実践を積み重ねることが必要です。
2: そもそも、「生産性」の土俵に乗らない。私たちの「内なる優生思想」と向き合うこと
人は、知らないことはなかなか想像できないものです。得体の知れない存在、自分とちがう、遠いと感じられる存在に対しては、ついつい一面的な印象からジャッジをしてしまいがちです。障害のある人たちをはじめとするマイノリティ当事者は、本人不在の状況で作られたイメージによる決めつけを、特に受けやすい存在であると言えます。だから、「そうじゃないんだよ」「こんなにも多様なんだよ」と示し続けていこうというのが、前節で提示した方略です。これ自体にも意義があるし、まだまだ発信の量と幅を増やしていくべきだと考えています。
しかし同時に、この方略は植松被告が囚われた「生産性」と同じ土俵に乗って闘うことでもあることに、注意しなくてはなりません。「障害があっても、こんな風に暮らしていける、働いていける」という”成功事例”を示すことが、さまざまな要因で、現時点ではそれが難しい人たちに対して「いや、できるじゃん、やれよ」というプレッシャーを助長することになっては本末転倒です。
作家の杉田俊介氏は、『相模原障害者殺傷事件 優生思想とヘイトクライム』(青土社、立岩真也・杉田俊介、2017年) の中で、SGA性低身長症である息子さんに成長ホルモンの注射を行う際の自身の逡巡を語りながら、体の大小、成長のスピードといった小さな価値判断からも、私たちが「内なる優生思想」に影響されてしまうことを示しました。本当に必要なのは、私たち自身が「内なる優生思想」に引っ張られずに済むための言葉なのかもしれません。「生産性」の大小、自立できる/できない、障害の軽重…どんな基準であっても「生きること」への線引きは、拒絶する。ただ「殺すな、生きさせろ」と、いかなる時代も言い続けること。その上で、先に述べたような短期的・実務的な土俵でも、偏見をはがす反例を示していくこと。そんな2層構造のアクションを続けていくことが、「生産性」の呪いに抗うための、地味で、長期戦で、しかし唯一実効性のある戦いなのだと思います。