それぞれに傷んできた。しかしまぁ、生きてる、大丈夫

だいたい月に1度か2度、しばらく会ったり連絡取ったりしていなかったなぁという友人から、ふと連絡をもらう。風が吹いたんだろう。

「やあやあ、ひさしぶり」と返事を送り、やり取りを始める。「特に何があったわけじゃないけど、どうしてるかな?と思って」という感じでただただ近況雑談的な人もいるけれど、ほとんどの場合、なんだかのっぴきならない事情ー体調崩したとか診断受けたとか職場や家庭の人間関係で悩んでるとか休職とか介護とか別居とか離婚とか…を抱えていて、本人もそれまで色々がんばってみたけれど手詰まり感があって、何かいい方法とか支援とかないかと、ふと僕のことを思い出して連絡をくれた、という人たちだ。

僕は別に医師でもセラピストでもなく、吹けば飛ぶような貧弱病人自営業者に過ぎないのだが、自分が傷んで弱ってどうにかこうにかやってきたプロセスをブログやらなんやらに書き残してネットの片隅に置いてきていたり、これまでの経験上、医療やら福祉やら心理やら各種支援サービス・制度のことを薄く広く知って利用してきており、またそれぞれの分野の支援者や、色んな障害や病気を経験してなんだかんだ生きている「先ゆく仲間」たちと繋がっていたりというのもあって、「詳細はわからないけどそういうことを知ってる・やってる人」として僕をうっすら認識してくれていて、なんらか自分の状況に対応した引き出しを持ってるんじゃないかということで、連絡してきてくれたのだと思う。まぁとにかく、風が吹いたんだろう。

「そうかそうか、そりゃ大変だったね」
「よく生きててくれた。連絡ありがとう」
「ようこそ、こちら側へ笑。ま、大丈夫だよ」
チャット、電話、ビデオ通話、対面など、連絡をくれた相手に合わせてやり取りを続けて、話をうんうんと聞きながら、だいたいいつも、こんな言葉をかける。

シビアな出来事の渦中にいるとき、弱っているとき、他人に連絡・相談すること自体かなりのエネルギーを使うし、本人は僕に連絡くれるまでにも色々試行錯誤してきているわけだからさ。生き延びて連絡くれたというだけで、拍手喝采、感謝感激、はなまる、なのだ。

本人が語ってくれることをしばらくそのまま聞いて、受け止め、労い、それで少し見えてきた・落ち着いたなというタイミングで、もう少し具体的な状況、事実、他の登場人物との関係、持っているリソース、これまでやってきたことと結果、選択肢などなどを、わかる・話せる範囲で確認し、その上で僕が考えたこと、繋げられる先、手伝えそうなこと、など、言えることを言う。

自分ひとりでどうにも出来ない「痛み」「悩み」「困り」「モヤモヤ」「障害」があるというときに、何が本人にとって必要で有効な手立てか、何をどの順番で行ってどう組み合わせるのが良いかは、本人と、本人を取り巻く環境の色んな要素とそれらの相互作用による。

「手立て」自体は色々あって、色んな肩書き・職業・技法を持った人がそれぞれのメガネによる見立てでもってアプローチする。

・身に出来事を言葉で意味づけ、対象化・外在化し、「物語」を編み直そうとする試み
・神経伝達物質とか、栄養素とか、疲労・凝り・張りとか「身体」の状態や仕組みを踏まえて、悪いところを治したりほぐしたり、持っている力を回復させようとする試み
・特定の「行動」と結果に着目して、それが起こるきっかけや結果に対するフィードバックを変えていくことで、問題を起こりにくくしたり良い結果を増やそうとする試み
・身を置いている「環境」そのものを変えたり調整したりして、ストレスや被害を避ける・軽減しようとする試み
・趣味や気晴らし、仕事、友人や仲間との繋がりなど、他のもので心と身体を埋めていく、「代替」することで、悩みや痛みを相対的に小さくしてしまう試み。

話を聞いて、本人が探している・望んでいる・関心を持っている手立てがあれば、それを実行できる支援者や関係する制度を伝えたり紹介したりする。その場でいくつかリンクを貼ったり画面を見せたり、本人に必要そう・合いそうなものを見繕ってGoogleドキュメントにまとめた簡易「サバイバルキット」を後で送ったり、知り合いの支援者とつなげたり、なんだかんだ生き延びてる仲間が多くいる閒のSlackに誘ったりする。合う合わないはあるが、一個一個試していくことは悪くない。

ただ、多くの場合、問題もその解法も「ひとつ」に収まらない。いろいろ絡まっている。変えやすいことと変えにくいことがある。だからたいていは、それなりに時間がかかる。

やれそうなことをやって、好転する部分もあるが、なかなか動かない部分もある。ひとつクリアしたと思ったら別の問題が新たに出てくることも、ざらにある。

難儀だが、ごまかしたり愚痴を言ったりしながら、ほとんどのことは究極、「時間」をかけてやり過ごすしかない。

さっさとこの痛みをどうにかしたいのに、時間をかけるしかないというのは残酷でもあるが、しかし、長い目で見ると、あらゆることにおいて、「時間」は全ての味方だと僕は思う。

神様、私にお与えください。
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、
変えられるものは変えてゆく勇気を、
そして、二つのものを見分ける賢さを

ラインホルド・ニーバーの「平安の祈り」だ。依存症の自助グループなどで広く知られており、ミーティングに参加すると最初や最後にみんなでこれを唱えることも多い。この3つに尽きるなと思う。

連絡をくれた友人たちに対して、状況を見極め、変えられるものを変えるために僕に出来ることがあればなんでもしようと思うし、実際に行うのだが、それ以上に、変えられない、どうにもならないなんやかんやを抱えてそれぞれの孤独な生を生きるしかないという事実、現実に対して、せめてもの気休めに、愚痴を聞いたり嘆いたり一緒に泣いたり笑ったりメシを食ったりお茶を飲んだりと、ほんの少しでも同じ「時間」を過ごしてやり過ごす、そういう友でありたいと願う。

それぞれに傷んできた。しかしまぁ、生きてる、大丈夫。
僕もたくさん、助けられてきたし、今も助けられている。ありがとね。