2020年12月13日に、デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか?』のオンライン読書会をした。この記事は、本書の背景および内容と、読書会での対話とを下敷きにしたエッセイである。
『差別はいつ悪質になるのか?』は、差別にかかわる理論的問題を扱う著作のなかでもかなりの重要文献である。また、ごく近年の文献でも盛んに参照される現役バリバリの研究書であり、まだ過去の遺産ではない。言ってしまえば、大学院のゼミで読むような本だ。
では、なぜそんな難しい本を閒の読書会で取り上げるのか。「差別」といういかにも(21世紀に生きてそこそこリベラルを自称している)我々が完全に理解していそうだと思われるトピックについて、実際にはどういう難しい理論的問題があるのか、これをより多くの人と共有し一緒に考えたいと考えたからだ。そのための手段として『差別はいつ悪質になるのか?』は適した本だと私は考える。それは、この本が、エモい決め台詞でナチスを一刀両断したり、何の説明にもならない言い換えをしたりすることではなく、自分が使っている理屈(または他の理屈の欠点)をはっきり書くことによって問いに取り組んでいるからだ。
(以下では、『差別はいつ悪質になるのか?』での用語法にしたがい、「差別」を、不正であるかどうかを問わない中立的な語として使う。こちらのほうが、不正なものを「差別」といい不正でないものを「区別」というふうに使い分ける日常的用語法よりも、あとあと記述がシンプルになる。違和感があれば、各自で読み替えてほしい。)
とはいえ、差別というのは、多くの場合には、今まさに誰かの人生をめちゃくちゃにしている重大な社会的・道徳的問題であって、哲学者の理論的おもちゃではない――こういう反論があるかもしれない。これに対して、私は部分的には賛同する。たとえば、目の前で警官が丸腰の東南アジア出身者を撃ち殺そうとしているときに、「果たしてこれは本当に不正な差別か?」と理屈をこねるべきだと哲学者が言っているとしたら、おかしいだろう(し、たとえ哲学者であってもそんなことを言う人はほぼいない)。まずはその警官を止めるべきだろう。そこについては私に異論はない。
しかし、世の中にある差別のすべてがこのように明白な「わるもの vs. 被害者」の形をとるわけではない(誤解のないように付け加えておくと、これは「被害者にも悪さがある」という話に限られるわけではない。私はそのルートの議論を全否定するつもりはないが、よほど強力な根拠がないと擁護できないルートだとも思っている)。さきに見た警官の事例で、理屈が余計であるように見えるのは、差別がわかりきったトピックだからではなく、たまたま上の事例がわかりきった事例だったからにすぎない。そして、明白な「わるもの vs. 被害者」の形を見て取れない差別であっても誰かの人生をめちゃくちゃにしうることを我々はよく知っている。悪気のないセクハラや無意識的バイアスがその典型例だ。また、アファーマティブ・アクションを擁護する強い根拠のひとつは、たとえ多数派や強者サイドが悪意や敵意をもたなくても集団間不利益が生じてしまうのでそれを強制的に事後調整するしくみが必要だというものだ。
さらに厄介なケースとして、今の我々にとって問題がなかったり正しかったりするように思えるものが、あとあと振り返るととんでもない不正だとわかるということがありうる。まずは過去を振り返ろう。らい菌の感染力はそれほど強くなく、またハンセン病は薬で治る病気だということが知られてからも、日本では、つい数十年前まで、ハンセン病患者の強制隔離は正当な公衆衛生的措置だと考えられていた。今の我々はこれを不正な差別の典型例に挙げるだろうが、当時の大多数の人々は大真面目だった(本当にそうであるかどうかは歴史学者の知見を頼らないといけない。ここではそうだと想定しよう)。同じような事例はほかにも挙げられる――同性愛やディスレクシアを考えてほしい。さて、過去の言動が今の我々からみてヤバい差別的言動であるように、今の我々の言動が未来からみればヤバいとしても不思議ではない。私は予言者ではないので予測しか言えないが、アナウンス騒音や、口頭でのやりとりを強いる企業活動は、いつか不正な差別的慣行として扱われるのではないかと考えている。
話を戻そう。差別はたしかにアクチュアルな問題だが、理屈がまったく余分だといえるのは限られた場合だけだ。差別のなかにはそれほど明白でないものがあるし、そのせいで我々はまちがいを犯してきた。理屈などいらないといって正義感に頼るのは、かっこいいかもしれないが、単にかっこいいだけだ。理屈だけで実践的問題が解決できるとは言わないが、理屈すら通らない状況で実践的問題を解決しようとするのは危険な博打であるように私には思える。
(なお、今回の読書会では、「そんなことを言うなんて差別主義者め!」のような人格攻撃の禁止がはっきりと決められた。議論において人格攻撃が反則だということは当然だが、とくに差別というアクチュアルな問題を扱う上で、聞こえのいい空虚な主張にすがらずに自分の経験と頭とで語ることを促すという意味でも、この規則は望ましいと私は思う。)
最後に、一応これは読書会ログを兼ねた記事なので、読書会の内容に触れたい。今回は『差別はいつ悪質になるのか?』のうち4–6章を扱った。これらの章で、ヘルマンは、「差別が不正であるのはなぜか」という問いへの答えとしてありがちな三つの立場を批判している。その三つの立場をかなり大雑把に示すと次のようになる。
普通の意味での「能力」に言及する立場
例:医学部入試で女性を冷遇するのは不正だ。なぜなら、女性がみな医師としての能力に劣っているというのは間違いだからだ。合理性に言及する立場
例:医学部入試で女性を冷遇するのは不正だ。なぜなら、優秀な医師になるであろう人の判定規準にとって性別は無関係だからだ。意図・悪意・偏見に言及する立場
例:医学部入試で女性を冷遇するのは不正だ。なぜなら、それは女性を冷遇しようという意図にもとづいているからだ。
ヘルマンによれば、これらの立場はどれもうまくいかない。概要だけ紹介すると、これらの立場は、どれも、一部の(明らかに不正だと思われる)差別の不正性を説明できないのだ。第一の立場では、障害者差別の多くが不正でなくなってしまう。第二の立場では、きわめて合理的な差別――たとえば、研究によって、性別と特定の職業のパフォーマンスとのあいだに本当に有意な正の相関があると示唆された場合を考えてほしい――が不正でなくなってしまう。第三の立場では、本当に悪気のない間接差別が不正でなくなってしまう。
注意してほしいのは、こう言ったからといって、別に医学部入試で女性を冷遇するのが不正でないと言っているわけではないということだ。論点は、その不正さの理由として本当に理屈の通ったものは何かである。では、その「本当に理屈の通ったもの」とは具体的に何か。ヘルマンの答えは『差別はいつ悪質になるのか?』の1–2章に書かれている。次回の読書会ではここを読む。
次回読書会の詳細・申し込み方法はこちらです。1月31日(日)17:00-18:30にZoomで行います。今回からの参加も歓迎です。
書いた人
■石田柊
分析的道徳哲学者。一言でいえば、(1)幸せな人生を送るとはどういうことかと、(2)誰かの幸せが別の誰かの幸せを踏みにじっている場合にどうすればいいかを理論的に研究しています。「わかったつもり」の解消が生きがいです。