私にとって「食べること」は、苦しみを伴うものだ。もうずいぶんと長いこと、「食べ過ぎてしまう」という問題と付き合っている。
食べ過ぎると、栄養過多になり太ってしまう。それを誰かに打ち明けると、「どんな外見であれ、あなたは素敵だよ」と肯定してくれる人もいる。それはありがたいことだ。でもやっぱり嫌だし、胃腸の調子だって悪くなる。何より、なんだかからだがスッキリしないのだ。それをどうにかしたいと、かれこれ10年余り思いつづけている。
一日三食の決められた時間以外に食べたくなるのは、午前10時ごろ、午後2時ごろ、午後10時ごろとだいたい決まっていて、食後3~4時間であると分かる。消化について調べてみると、その時間帯はまだ消化は終わっておらず、胃で食べ物がどろどろの粥状になる頃合いのようだ。食べたい欲求が湧いても、胃腸のためにはやはり食べ物を口にしない方が賢明らしい。
それを知ってから、前よりは少し食べることを控えられる頻度が高くなった。どんなに自分が胃腸を酷使してきたかを悟り、「胃腸を休ませてあげたい」という心が芽生えたからだ。胃腸は自分のからだの一部なのだけれど、「自分のもの」と思うと、つい甘え心が出て雑に扱ってしまいがちだから、「胃腸さん」とまるで他者であるかのように扱う。休みなく食べるということは、「胃腸さん」を酷使することだから、それは「胃腸さん」に申し訳ない。私が少し食べるのを控えることで、「胃腸さん」が休まるなら、私は喜んで控えよう。そういう発想だ。
しかしそれでも食べてしまうときはやはりある。もちろん以前よりは食べる頻度が低くなったのだから、それはそれでよくやっていると認めてあげたいが、もっと頻度を低くできたらとも思っている。できれば、からだがスムーズに動き、見た目も自分好みになるような、自分なりの適正体重に戻していきたい。
食べてしまう時間帯として、一番困るのは、午後10時ごろだ。眠りに就く直前で、この時間に食べてしまうと、翌朝胃もたれがする。太りやすいような気もする。なぜこの時間帯に食べてしまうのだろうか。もしかしたら、なんだかもの寂しくなるからかもしれない。眠たい時、意識が朦朧として理性が薄まり、どこか満たされない自分の正直な心が顔をもたげてくる。そういうときに私は食べてしまうような気がする。
食べることは、私にとって、自分を満たすための、身近で手軽な手段なのかもしれない。であるとすれば、自分を満たす別の手段を、できるだけ多く持ち、それをいつでも引き出せる場所に置いておくことが必要なのだろう。たとえば、夜寝る前に誰かと少し話すとか。いい香りに包まれて眠るとか。安心する音を聴くとか。幸せな気持ちを引き出す映像を思い浮かべて眠るとか。すべすべしたものに触れて眠るとか。愛する人をなでて眠りに就くとか。自分なりの入眠の儀式を持っておくのもいいかもしれない。
私はいつもどこか満たされない思いを抱えて生きている。人はだいたいそういうものなのかもしれないけれど。自分を満たそうと対策を講じたからといって、問題が即解消だなんてことはあり得ないのだけれど、ゆっくり時間をかけて試行錯誤しながら、からだと心に優しい食べ方を身につけてゆきたいなあ。そう思いながらも、私は今夜も、真夜中の台所で鈍く光る冷蔵庫の扉を、つい開いてしまうのだった。「ごめんね、胃腸さん」と心のなかでつぶやきながら。