人生でいちばん堕ちていたとき、わたしはもう何カ月も自宅に引きこもっており、しかしその日は大学病院の救急処置室にいた。
もう何度目だろうか。自分を真っ向から否定する願望を達成することができずに運び込まれたわたしは、意識のある状態でもちろん麻酔をすることなく鼻から固形物を突っ込まれ、胃洗浄を受けた。強烈な痛みが走り、否が応でも生を自覚させられ、「二度とこんなことするもんか」とわたしは心の中で誓った。
あの日、医師はわたしのベッドを重症患者の隣に配置した。それが意図的だったのか、単なる偶然だったのか、知る由もない。おそらく自殺未遂を何度も何度も繰り返したのであろう彼は、目はうつろで焦点が合わず、何度も点滴を引きちぎってはベッドから転がり落ちていて、見るからに死の縁にいた。
彼の姿はわたしを怯えさせるのに十分だった。
医療機器の電子音が鳴りやまない部屋で、呆然とするわたしに医師が数冊の本を差し出した。いずれも「死」や「生」にまつわるもので、まだそれらと向き合う気力がそのときのわたしにはなかったのだけれど、その中でいちばんマシに思えた重松清の『流星ワゴン』を手に取った。それは、「死」や「生」というと重く感じるけれども、詰まるところはしんどいときに「後悔」とどう向き合うかだ、という気づきをくれる本で、読み終えてふと顔を上げると、医師や看護師がきびきびと働いている姿が目に入った。
「人は動いていないと死ぬんだな」とふと思った。10代後半からわたしのなかに巣食っていた病のうちいくらかを手放した瞬間だった。
それからわたしの人生は劇的に変わったわけではないけれど、少しずつ確実に変わっていった。
今もわたしは、元気でいるつもりの日でも、ふとした瞬間に自己否定的な言葉が脳内に鳴り響くことがある。それは自分でも驚くほど強い負の力を持っている。しかしもうわたしはあのときのような行動を取ることはない。「また言っているな」と、まるで他人の発する悪口かのように受け流す。そして、「少し疲れているのかな」「寒いからだろうか」と、からだを休めたり温めたりして、自分を労わる。
あの日の救急処置室で見、感じたものたちが、今を生きるわたしを底から支えてくれている。