いびつなものとしての私たち

僕は恐らく軽度のADHDだと思うし、躁鬱病(双極性障害)だろうし、適応障害かも知れないし、まず間違いなくアル中で、他にもなんやかんやあるかも知れない。でも僕にはそういった診断は一つもついていない。たまたま主治医が「そういう」人ではなくて、診断名をつけようとしなかったのだ。一方で毎週新しい診断名が増えていった友人もいる。

「発達障害で片付けようとするのは思考停止というものです。人間はそんなに簡単なものではない」先生はそう言った。 

なかなか安定しない僕の状態をみかねて、妻が先生と面談した時にも、先生は「彼に治療は必要ない。彼は彼の意思でやっているのだと思います」と言った。

僕がわけのわからない精神障害者の独白もしくは現代詩みたいな小説を書いて、先生に見せた時も、「主治医として何と言ったら良いか……」と苦笑しながら、「それでもどこかに『作為』のようなものがあるように感じる。分かってやっている、というような」と言われた。

病の境界線はどこにあるか、というのは、古くからあるテーマだろう。障害とはどこにあるか(本人の中なのか、社会の中か)、というのも、語られ尽くされたテーマだろう。

「わたし、『病んでる』って言葉嫌い。だって人って常に多少なりとも病みを抱えているものでしょう」十数年前、当時の恋人はそう言った。確かにそうだ。どこから病んでいて、どこから健康なのか。それはいつも曖昧だ。だからこそ精神病理学が頑張るのかも知れないし、だからそこに限界があるのかも知れない。

「病というものはない。苦悩があるだけだ」とイタリアの精神科医であり精神病院を全面的に廃止したバザーリアは言ったそうな(凄い話だ)。確かにそうだ。極端な考え方かも知れないが、この捉え方は人を救いうるとも思う。

古代のギリシアだったかどこだったかは忘れてしまったけど、いつかのどこかの社会では、精神的な病は創造性と繋がるものとして価値を見出されていた、というような話を何かで読んだことがある。それが事実として正しいかどうかは割とどうでも良い。実際そうだろうと思うから、そういう捉え方があると思うことで良い。

一方でつい最近まで、精神病というものがよく知られていなかった日本の特に田舎では、座敷牢というものがあって、病人は治療の代わりに監禁という「ソリューション」を与えられていた。そういう時代もあった。

ゴッホは耳を切って自殺した。高村光太郎は智恵子抄を書いて隠居した。ジム・モリソンは27歳でヘロインで死んだ。Aviciiも死んでしまった。

病。異常と正常。正気と狂気。人がパンのみにて生きるわけでないように、人は健やかさだけで生きているわけでもないだろう。

希死念慮という言葉がある。死にたみ、という言い方もあるだろう。もっとライトなものとしては、消えたい、というのもあるだろう。積極的に死にたいってわけでなくても、消極的な望みを抱えて生きている人はいる。気付いていない人もいる。それは体の中で眠っているウイルスのようなものだ。眠っていたり、起きて食事を求めたりする。どうどう、よしよし、と僕らはそれにエサをやる。そうやって、ままならなさを、やり過ごしている。

ミラン・クンデラは「存在の耐えられない軽さ」を通じて、人間の存在のやり切れないほどの希薄さのようなものを描いた。軽さは人を殺すし、重さも人を殺すだろう。チャップリンの言うように、悲劇は遠くから見れば喜劇だし、喜劇も目を凝らして見つめると恐ろしい。病は重さを持っている。しかし重みの無い生命は、それはそれで耐え難いだろう。

存在は軽いかも知れないし、重いかも知れない。どちらでも良い気もする。一つ言えるのは、それは「ややこしい」ということだ。

よく言う話だけど、人はやっぱりいびつな生き物だ。これを「人は誰しも欠けたところがある」と表現することもあろうが、それは少し正確ではないように思う。欠けているってわけでもないからだ。単に、いびつである、ってだけだ。いびつなままで、完成しているはずだ。でも多くの場合、その「欠けた」部分に何かを埋め込んで、丸く見せたり、四角く見せたりして、僕らは生きている。僕もそうやって生きてきた。10年間、何だかんだたくさん働いて、健やかで、前向きで、強いものが尊ばれる世界で、自分を演じてきた。と言って、演じていない状態なんて、本来ありえないだろう。

人がもしもつるんとした、まんまるな存在だったとしたら、僕らは手と手を取り合うこともないだろう。いびつだからこそ、手を繋ぐことが出来るのだろう。何かを差し出して、奪い合って、僕らは生きている。歪みがあるからこそ、互いを補うことが出来るのだろう。だからこそそれは時に擦れ合って、傷付けてしまうこともあるけれど、まあ仕方無い。たまには奇跡のように、ぴったりくっつくことだってあるのだから。