「さよならを言うことは少しの間死ぬことだ」とはレイモンド・チャンドラーの小説の探偵フィリップ・マーロウの言葉だったか。そんな気もするし、そうでもない気もする。もしそうだとしたら、眠るということも少しの間死ぬことなのかも知れない。そんな気も……、いやそんな気はしない。
眠っている間人には何が起こっているのだろう。髪も伸びれば爪も伸びる。お腹の中のいろいろは、静かに溶けて無くなっていく。眠っている間にも沢山のことが、文字通り、起きている。そもそも人は自分の身体が、どこからどこまで自分のものだと知っているだろう。髪に紛れた抜け毛のことや、伸び過ぎた爪、に挟まった僅かな垢……自分がどこまで自分かなんて分からない。腸内細菌は自分だろうか。
人は沢山の人に出会い、沢山の言葉を受け取って、様々な菌を交換し、自分を毎日造り替えている。身体に蓄積した記憶も菌も、自分でないようで、自分のようだ。起きなかったことも歴史のうち(※寺山修司)であるように、眠っている間に見たものもあなたのものだ。
先日、と言ってもこれを書き始めた今日だけれど、ふと何かがおりてきてごくささやかな短編を書いた。会う約束をしていた男女が、一方は電車に揺られ、一方は家で爪切りを探している、というそれだけの話だ。書き終わって再読してしばらく経って、ああそういうことか、と思った。詳しくは後日読んで頂けたら幸いだし、ここで何かを語ることは野暮だから何も言わない(じゃあ何でその話をした)。
先日(こちらはほんとに先日だ)初めて本格的に小説を書いてみた。何を書こうか色々浮かぶけれど、どれもなんだかしっくりこなかった。小説というのは基本的に中で誰かが何かをするものだ。それには人格があって、そいつらは勝手に動き出す。作者はその場を提供するための存在だろう。なんだかそういうことがしっくりこなかった。締切の二日前、焼肉屋で友人と食べていると、僕がもう満たされたなと思った矢先にそいつが追加で豚バラと何かを頼んで、それを食べたら完全に余計だった。明らかに胃が困っていて、不快感がまとわりついた。その時に何かスッと腑に落ちたものがあって、ああこれを書こう、と思ったのだった。身体に纏わり付く不快感のように、頭を駆け巡る様々な記憶や思弁。こうしたものを描くでなしに、ただ溢れさせようとふと思った(今になってそう解釈しているが、当時の感覚は「あっ」くらいのものだ)。
その後書き始めて、言葉のタガを外すために、バーで色んな人と語らったり歌ったりしつつ、さんざん酒を飲んで、明け方の3時くらいから6時くらいまで酩酊しながら店のカウンターの片隅で書き続ける、という迷惑行為を2晩やった。できあがったものは勿論わけが分からなかった。それを何度も読み返して、やっぱりわけが分からなかった。特に後半。
それでも次第に、言葉の持つイメージが浮揚して、それぞれがそれぞれに何かと繋がっていて、それらがそれぞれに繋がっていることがぼんやりと見えてきた。つまり世界の裏側の言葉で書かれているというような感覚。なんだかそんな風に言ったらさも凄いものを書いたかのようだけれど、全くそんなことはないただの塵屑である。それにまだ発表もしていない小説のことを語るなんて、そんなお恥ずかしいことがあるだろうか。
恥ずかしさに打ち震えながらもやむなくこの話を引用したのには理由がある。決してなんか凄そうな雰囲気を醸し出そうとしていたわけではない。いやそうかどうかは分からない。つまりそういうことが言いたい。僕らが語っていることのどこにも本当のことなんて無くて、あるいはどこにもそれは偏在しているというようなこと。誰かの口をついて出た言葉自体には意味が無いし全部に意味がある。その言葉には抜け毛があったり爪の垢があったりして、どこからどこまでがそれなのか分からない。その人の言葉はその人”だけ”のものではない。その人が、あるいは何かがその人を通じて言おうとしたことは、その言葉からは分からない。何なら何十年何百年経ってから分かったりもする。僕らが見ている世界のことも、実はなんだかよく分からない。ずっと起きている人がいたとして、ずっと眠っている人がいたとして、世界はどちらに存在するだろう。
先日(これは昨日のことだ)Youtubeで観た創作落語があって、笑福亭羽光師匠のペラペラ王国というもの。語り手の話す話の中に別の話があって、というマトリョーシカ構造になった話が延々と続いていくものだ。あまり語るとネタバレになるので控えておく。
控えておくと話にならないので、一般論として話してみる。幼い頃にふと思ったことはないだろうか。自分が生きているこの世界が、誰かの夢だったりしないだろうかと。この世界はガラスの球体の中にあって、それは誰かの部屋に飾られたりしていないだろうかと。原子や量子の世界を眺めてみるとまたそんな気にもなる。この宇宙が実は途轍も無く小さな粒子だったとしたら…?やっぱり僕らの世界は誰かの夢なのかも知れない。
そして僕らはきっと、毎日世界を行き来している。今日あなたが眠る時、あなたは世界の裏側にいく。”現実”のあなたは布団の中ですやすやと、たまに歯ぎしりしたり眉間に皺を寄せたりするかも知れないけれど、まあ基本的には眠っている。その時あなたの身体は誰のものだろう。あなたは向こうの世界で遊び、あるいは泣いたりして、それに飽きたら帰ってくる(帰ってこない日もあるかも知れない)。
ドラクエ6みたいなゲームでは、異世界で獲得した経験値もアイテムも何故だか持って帰っていることがあるけれど、それはほんとにそうなのだ。眠っている間にあなたは世界の裏側にいく。そうして何かを持って帰る。きっとそういうことなのだろう。
眠れなかったり眠り過ぎたり、とかく僕らは眠りに弱い。そこには引力があったり、何か強烈な反発があったりして、どうにも一筋縄ではいきにくい。まるで家族のようだ。でも多分心配することはないのだろう。起きてる間も寝ている間も、世界は動いたり止まったり、あなたは何かを食べたり見たり。どちらもきっとほんとうのことで、何も損なわれたりなどしていないのだ。
やっぱり、さよならを言うことと本当は同じように、眠るということもきっと、少しの間世界の裏側にいくということなんじゃないかと思ったりする。……なんて。つまらない話をしていたらなんだか眠くなってきた。ちょっとお散歩してきます。