積極的に悪く言われたいとは思わないのだが、同じような中傷やからかいはずっと続くと慣れてしまう。よろしくない傾向だとは分かっているが、意思とは関係なしに慣れてしまうのだから仕方ない。
これは初対面で良い印象を持たれることが少ない私の話だ。「最初、怖い人かと思っていました」と言われたとしても、何十年も言われ続けているフレーズだ、「お、来たねいつもの」ぐらいにしか思わない。もう慣れっこなのである。仮に“思ってしまった”という事実について、私が相手に不満を述べたところで、過去が変わるわけではない。言い回しが大げさになってしまったが、つまりはまあそういうことだ。
この「怖い人かと」の中身というのが「笑っていないと顔が怖い」である確率が高いのは、私調べ本日現在。え、あのとき私笑ってなかったっけ、と聞いたらば、大口開けてダハハと笑うということではないらしい。「目が合ったらニッコリ」だってさ、そんなことできるかこのやろう。照れ屋を自認する私にはなかなかにしてハードルが高い。
とはいえ、他人さまに悪印象を与えたくはないので、笑顔で話を聞くようにするなど、自分なりに気をつけてはいる。でも、そうはいかない場面や状況もある。途端に怖がられてしまう。困る。ままならない。
さて、そんな私が昨年末、勤務先である図書館兼飲食店で取材を受けた。笑顔を浮かべるように心掛けたし、楽しい時間であったので、気負わず笑っていたと記憶している。撮影の合間、冗談だって口にした。しかし数日後に上がってきたデータを見て驚いた。カメラを見つめる私の顔が怖いのだ。笑顔なんてあったもんじゃない。初対面の方を相手に取材を受けるという私にとってはイレギュラーな事態、若干の緊張はあった。とはいえ、楽しく過ごしていてもこの顔かと、さしもの私も落ち込んだ。言葉ではなく、画像データで示されたら逃げ道がない。「私っていつもこんな顔してますか?」と友人知人に質問したくなったものの、「いつもこんな顔だよ」と返ってきたらしばらく立ち直れそうにない気がして、思いとどまった。好いた人たちの前では柔らかい表情を浮かべていたい――私だってそれぐらい望んでもいいじゃないか。
もう当分取材なんて受けたくないと腐っていたところにまた取材依頼が入った。店舗としてはありがたい話で、私だって大人である。「私の顔が怖いので」などと申して断るなんてことはしない。依頼主が旧知の編集者氏と、面識のあるカメラマン氏だという気安さもあり快諾した。あとは冒頭にて述べたように、不愉快なことも繰り返せばそのうち慣れるだろうという目論見もあった。自分の顔が怖いことにも慣れる。きっと慣れる。
当日はとても楽しかったし、やはりたくさん笑っていたと思う。それでも取材を終えて2人を見送った後は「どうせ仏頂面で写っていたのだろう」と暗い気持ちが頭をもたげた。
後日、届いたデータを開く前には深呼吸した。以前のような自分の顔を目にするのだと、心準備をしてからクリックした。すると今度は別の意味で驚いた。私は満面の笑みを浮かべているではないか。仕事中であったにもかかわらず、私はその場で落涙してしまった。「顔が怖い」と言われることに慣れてはいたものの、気にしていないわけではなかったのだと初めてはっきりと自覚した。同時に深い安心感にも包まれた、私だってこんな顔で笑うこともあるのだ、と。
なんて気づいたところで、初対面で怖がられてしまうという問題は少しも解決に近づいていない。でもまあ、別にいいかと今は思っている。だって笑っていれば怖くないのだし、怖くない笑顔を浮かべる自分もいるのだと知ったから。いいよいいよ、存分に怖がってくれて構わない。でも、黙っていると怖い私だって、顔をくしゃくしゃにして笑う瞬間があるってことに、いずれ気づいてくれたら嬉しい。