笑いとは…

笑いとは一種の破壊だと思う。笑うということは一つの救済だ。笑いと笑うこととの間には隔たりがある。それらは時に同じことだし、時に全く違うものだ。

 今ここに幾つかの歪な形の積み木があって、慎重に慎重にそれを積んでいく。震える指先で、一つ一つ積み上げていく。達成感。喜び。そして完璧な構築はふとした瞬間に見事に崩壊する。笑いとはそういうものだ。誰かが、人類が、気の遠くなるような年月、もしくは人生をかけて組み上げたあらゆる正義が、いとも容易く突然脱臼する。笑いとはそういう残酷なものだ。真剣な姿ほど美しく、そして滑稽なものは無い。美とは。苦しみとは。あらゆる純真なるものとは。それらは時に鳩の糞のようなものだ。全ては相対的なものであり、笑いはそのことを突き付ける。

 笑う営みは心身を癒やす。そして笑いとはその姿すら虚無の彼方に優しく棄て去るものだ。心地良く笑う自分の姿を笑いはじっくり観ている。笑いは全てを無価値にする。笑いは全ての打ち棄てられたものを復権する。笑いはいつでもどこかで眠っている。

 全ての真摯なるものへ。全ての慈しまれるべきものへ。我々は須く滑稽です。善よ、悪よ。空の色味も若葉の脈も等しく無価値です。スリッパを履いて眠ってはいけません?埃に塗れたグラスに湯を注ごう。忘れ去られたシリカゲルを、誰も見ぬ間にしこたま飲んで、誰かの胃液を乾かそう。生理用ナプキンと紙オムツを使ったことの無い者だけが、大量消費社会に石を投げなさい。風に色があったなら、こんなに多くを見なくて済んだのに。

 あなたが今自分のことが可愛くて仕方が無いのなら、笑いましょう、笑いましょう。その滑稽な姿を笑いましょう。あなたは可愛くも何ともない。偉くも尊くもなんともない。そんなことよりボウフラの、くるくる回る姿がいい。そうでしょうか?そうでしょうか。

 何もかも分からなくなろう。青は黄色。緑は紫。ポタリと落ちる水滴は、一瞬にして泥になる。多孔質の物体になって朝陽を待とう。いつしか全ては乾くから。「この海では昔はたくさん海苔がとれたのです」そこにいるのは誰だろう。

 あなたにもしも何かの力が残っているとするならば、それは全部棄てた方が良い。泥水に掻き混ぜて、蝿に喰わせて、何千年も経ったらいつしか空気になるでしょう。息を吸え。止まれ。前を向け。しゃがみ込め。眠っていいよ。そんなこと、何も覚えていないのだから。

 誰かが大切に大切に抱えてしまっているものも、全身全霊で憎んでいるものも、汚れた雪のように意味が無い。あなたのその大切なものが誰かを殺す。全部棄てよう。どうやら御存知のようですね。

 トーク。トーク。トーク。

 生産と消費。小さな小さな、小さな小さな。いつになったら終わるのでしょうね?余りにも手に余る余生。いっそ物質をやめませんか?

 笑いについて語る時、僕らは何を手にするだろう。そこに回収などない。手軽な感動も、気付きも、優しさも、何も無い。だってそうでしょう、笑いとはそういうものでしょう。全ては無価値で、全ては尊い。何も必要なものなど無い。複雑な生命と単純な生命の螺旋階段。笑うことは救いだけれども、笑いは救いすら認めない。仏に会ったら仏を殺せ。熊蜂の羽が欠けて、飛ぶことが下手になって、ゆっくりゆっくり旋回して、池にポトリと落ちて。その死がどれだけ多くの命を欣喜雀躍させたか。そんなことどうでも良い。

 銀河が収斂して、その歪みが引き起こすビートが、どんな音楽を奏でるだろう。無数の惑星が爆発して、数多の生命といずれ生命になるはずだった物資が轟音と共に無に帰して。その音楽はどんなものだろう。空気の無い世界で、音の鳴る方へ、瞬間移動を繰り返し耳をくっつけながら、一つ、一つ、音を拾って拾って、ただ一人で愉しもう。好い加減生命をやめよう。データになろう。早いとこさっさと、この世を去ろう。え?聞こえない?

 もう飽き飽きなのだ。全てを棄却する、誰も知らない笑いを下さい。