広大な敷地の一角にあるコンクリートで固められた路面に、トヨタ・コンフォートを停めた。
一緒に来た先輩のタクドラたちが、さっそく煙草に火を付けた。うまそうに煙を吸い込んでいる。
「ちょっと1本いいですか」ともらい煙草。一服つける。
煙を吐くとき、空を見上げた。上空には、ヘリコプターが飛んでいる。テレビ局のヘリコプターだろう。ヘリの回転音が響いている。距離があるので音は遠い。隣の人と普通に会話はできる。
僕たちが煙草を吸っている場所から、100メートルくらい横を見ると、鉄のフェンス越しに、望遠レンズをつけたカメラマンが僕たちを射程に入れている。いや、カメラマンのターゲットは、背後のあれだ。
振り向くと、豪華客船、「ダイヤモンド・プリンセス」がある。高級マンションが建物ごと全長290メートルの大型船に乗っている。そんな威容と迫力である。デッキには、無数の人影が見える。
日本でもっとも注目されている豪華客船。新型コロナウイルスで感染した人たちが、日本に入国できないまま留め置かれている現場である。
ダイヤモンド・プリンセス号が接岸している埠頭には、白いテントが張られている。そこでは発症した人たちが診療を受けている。
そのテントには、迷彩服を着た自衛隊と、医療スタッフが出入りしている。
そしてコンクリートで固められた埠頭には、交通整理の警備員が配置されて、許可のない車両が、ダイヤモンドプリンセス号に接近できないように目を光らせている。
埠頭から海上に目をこらすと、モーターボートが走っている。そのボートには、「テレビ局です。お話を聞かせてください。080-@@@@-####」と携帯番号が大きく掲げられていた。ダイヤモンド・プリンセス号の内部にいる人からの電話を受けて、内部の様子を伝える「独占インタビュー」を試みようとしているわけだ。
デッキには時間を持て余した様子の乗客がいる。もう1ヶ月以上もこの状態だ。下船はできない。出港もできない。「新型コロナウイルス感染者の乗った船」という烙印を押された人間たちは、横浜の大黒ふ頭で立ち往生していたのである。
暇だな。日本における新型コロナウイルス感染の最前線の現場に来たのに、緊張感がまるでない。
何か観察できることはないか、と周りを見ると、白いテントのなかにトイレがあるようだ。
タクシードライバーにとってトイレの利用は、ルーティンである。暇があればトイレに行き、膀胱を空っぽにしておく。お客さんを乗せたあとに、トイレに行くようでは、プロではない。
交通整理の警備員に「ちょっとトイレを借りていいですか」と声をかける。一瞬、躊躇した後に、頷いた。テントの中に足を踏み入れた。
ゴホゴホ、という咳をしている男性の苦しそうな呼吸音。
床には、ビニール袋に入った使用済みのマスクやガウンなどが置いてあった。
その空間には、自衛官、医療スタッフ、事務方、おそらくは役人と思われる人間が混在していた。医療、看護の人間はマスクとガウンで感染対策ができている。自衛官は迷彩服に編み上げブーツ。顔は見えていた。完全防護ではない。患者は白い布カーテンの向こうで診療を受けているようだ。
トイレを見つけて用を足した。出口には消毒用のアルコールスプレーが置いてあった。それを両手に降りかけて、テントを出た。
僕たちの仕事は、ダイヤモンド・プリンセス号の船内で患者の治療にあたった医療看護スタッフを、横浜市内の総合病院まで送り届けること。
僕たちはその人たちが船外に出るのをじっと待っていた。
「横崎タクシー」(本社 横浜市横崎区)は、神奈川県からの要請を受けて、ダイヤモンドプリンセス号の仕事を請け負ったのだ。
医療、看護のチームが、総合病院からダイヤモンドプリンセス号の停泊している横浜市鶴見区の大黒ふ頭に向かう。その往復移動の足としてタクシーが選ばれた。感染拡大のリスクがあるので、公共交通機関を使うことはできない。タクシーは公共交通機関の一種なのだが、世間はそう思っていない。いざというときは機動力のあるタクシーが選ばれる。
「どれくらい待つことになるんですか」
「1時間くらい。それ以上かもしれない。契約の時間になったら、実車メーターを入れて」
横崎タクシーの運行管理は、それだけ説明をして、「じゃあ、ご安全に」と言って、僕たちを大黒ふ頭に送り出した。
タクシー会社で働くドライバーは高齢者が多い。就業者の平均年齢は、全国では60歳を超えている。神奈川県は比較的若くて58歳くらい。タクシードライバーは、新型コロナウイルスに感染すると重症化する、ハイリスクな人たちが多い。高齢であり、慢性疾患などの持病をかかえている人ばかりだ。僕も50代なので、感染したら重症化するかもしれない。ダイヤモンドプリンセス号の仕事は誰にでも依頼できるものではない。会社は社内で志願者を募った。僕はそれに応じた。
新型コロナウイルスの感染について、とくに恐怖はなかった。20代、週刊誌の記者をやっていた。そのときのツテで、いまも医療関係者に知り合いがいる。知人の医師に、コロナがどれくらい恐いウイルスなのかをメールで確認していた。
手洗いと消毒の励行。対面での会食は避ける。ストレスを避けて、休養をとって免疫力をあげておく。これを徹底するだけで感染リスクは減るし、発症しても重症化は避けられる。
「それだけですか?」
「それだけで防げるし、一般人はそれくらいしかできないのよ」
その医師は、マスメディアが騒ぐほど恐くはないけれども、注意するに越したことはない、と言った。
テント内に充満した空気のなかに含まれた新型コロナウイルスが、ぼくの体内に入ったのは間違いないが、感染して発症する可能性は低い、と思うことにした。
契約の時間がきたので、ほかのドライバーと一緒に、実車メーターのスイッチを入れた。フロントガラスに「実車」と赤い文字が出た。
緊張感がまるでない現場だ。
ダイヤモンドプリンセス号の乗客は暇を持て余している。カメラマンはあくびをしている。モーターボートは取材ごっこだ。タクシードライバーは煙草を吸っている。テレビ映像になると、感染の最前線であるかのような緊張感がみなぎる音声とテロップが付けられていく。
医療スタッフたちが下船してきた。
警備員が手招きする場所に車両をよせて、一台に3人ずつ乗っていく。合計4台。行き先は同じ総合病院。信号待ちのタイミングがずれるので、4台が車列をつくって一斉に移動して、同時に到着することはない。一台ずつ大黒ふ頭から出て行く。バックミラーには、ダイヤモンドプリンセス号が見える。鉄製のフェンスを右折すると、船は視界から消えた。
車内で医療スタッフは何もしゃべらない。後部座席には、男性看護師1名。女性の看護師が2名。男性には神経質な態度が垣間見えた。二人の女性から距離を置かれているのだろう、と想像した。車両は首都高に入った。制限速度を守る。20分程度の走行で総合病院に到着した。
すぐに会社に帰庫。「戻りました」「おう、お疲れ様」
タクシーはすぐに、車内換気され、アルコール消毒スプレーが吹きかけられた。ハンドルなど人間が触れた場所を、丁寧に拭き取っていく。「まだ恐いなら、オゾンで車内の細菌を殺す処理もできるけど」「そこまでは必要ないです。次の出番の人が、コロナが恐いならどうぞご自由に」
会社近くのカツ丼屋で、カツ丼並を食べた。
食後に出庫。会社から1㎞も離れていない場所で、男性が手を上げた。
白いマスクに、プラスチックカバーのフェイスガード、白い防護服を着込んだ男性である。
病院関係者かもしれない、と思った。
後部座席のドアを開ける。男性が入ってきた。車内には、その人間のオーラ、存在感が入り込んでくる。
「えええ!!! 運転手さん、マスクだけじゃん」
「新型コロナウイルスの感染予防のために、マスク着用しないといけないんです」
「えー!! でも、それだけじゃ感染を防げないでしょ」
「まあ、気休めですかね」
「おれは感染が恐いから外出するときは、完全防護ですよ。お客さんから感染する、と思わないの?」
「タクシーは、1日で乗り込んでくるお客さんは多くて30人くらいですから。その都度、車内換気をしていれば、安全じゃないかと。同じ公共交通機関の、電車やバスの運転手のほうが、感染リスクは高いですよ。乗せる人間の桁が違いますから」
「そういわれたら、そうかも。満員電車はあっても、満員タクシーはないよな」
「お客さん、どちらまで」
「@@@病院まで」
精神科病棟のある病院だ。僕はゆっくりとアクセルを踏んで、走り出した。
新型コロナウイルスの感染で、港も、街も、冷静さをなくしている。