深夜時間帯になるとタクシードライバーの仕事は一変する。
午後10時から午前5時まで。この時間帯をタクシー業界では「青タン」と呼んでいる。タクシーの実車時の料金メーター表示が青く光る時間帯なので「青タン」と呼ばれているらしい。昭和から言い伝えられている業界用語だ。この時間帯になると、タクシー料金は2割増しになる。稼ぎ時である。
午後10時を過ぎると、タクシードライバーはそれぞれの得意な場所を流し出す。ほとんどのドライバーは飲食店が集中している繁華街を目指す。居酒屋やキャバクラから出てきた人がタクシーに手を上げる。するりと近づいて、ドアを開ける。お客さんが乗り込む。客の行き先は、次の店か、最寄り駅、または、自宅の三択である。ラブホテルに向かう客もいる。
青タンは、昼閒とは別の人間模様を観察できる時間帯だ。
若いカップルが乗ってきた。男女ともに30代前半か。一軒目で楽しい酒を飲んで、二軒目を目指していた。京急横崎駅から、国道15号線を西に走って横浜を目指す。
「二軒目のBARは、空いているかな」
「大丈夫。久しぶりに店長の顔をみたいね」
友人が経営しているバーに向かっているようだ。
「ねえねえ、行こうか」と男が女に声をかけた。
「どこに」
「ラブホ」
「なんで、あんた彼女いるじゃん」
「それはそれ。これはこれ」
「私も彼氏いるし」
「いいじゃん。別に」
「絶対に嫌。触らないでよね」
男が女性の手を握っているようだ。
タクドラは、運転に集中している。後ろを振り返ることはできない。後部座席の会話は、ラジオ放送を聞いている感じである。コロナ対策で、運転席と後部座席の間には透明のアクリル板が固定されている。だからはっきり声が聞こえるわけではないが、ほろ酔いの男女は、声の大きさを気にせずしゃべっている。チューニングがピタリとあったAMラジオのように明瞭に声が聞こえる。
女性は「イヤ!」と、ぴしゃりと言い放ち、怒っているようだが、この二人は過去に肉体関係があったのだろうか、女からは性犯罪の被害者であるかのような驚きや悲痛な感じはない。
「まえから、ハルミと、したかったんだけどさ。いいじゃん」と話を続ける男。
「イヤだよ。そんな気分じゃないし。横浜のBARには行かないの?」
「行くよ」
「ラブホはイヤ。明日、仕事だし」
「俺も明日仕事だよ。なんとかなるよ」
「イヤ」
このやりとりを3回くらいリピートして、男性は諦めたのか、後部座席で静かになった。
その後、他愛のない雑談にかわり、二人は横浜駅西口で降りた。
タクドラとしては、性被害につながりかねない修羅場に至らなかったので、一安心である。仲の良い異性の友達。過去に肉体関係があったのか、なかったのか、これからどうなるのか。ラジオ番組なら続きがあり、結末があるが、通り過ぎるお客の会話の続きを聞くことはできない。二人の存在の余韻を、吹き飛ばすように、車窓を開けて、外の空気を入れた。次のお客をみつけて乗せないといけない。頭を切り替えよう。
同じような男女の会話を何度か聞いた。
タクシードライバーとして観察をする限り、タクシーに乗り込んでからラブホに行こう、と誘って成功した事例はゼロだ。
タクシーに乗り込む前に、ラブホに行こう、という合意が必要なのである。
鶴見駅で午後11時くらいに駅付をしていたとき、夜の付き合いの合意が無い男が女性に惨敗した姿を目撃した。
中年の男女が、タクシーに乗り込もうとしていた。僕は、そのタクシー車両の後ろに停車していた。女性が先に乗り込み、それに続いて、男性が後部座席に移動しようとしたとき、女性は、両手で男を車外に押し出した。
「あーあ、ふられちゃったか。残念でした」とひとりで声をあげた。分かりやすい男女の別れだった。
男が女の両手で車外に押し出されたと同時に、タクシーの後部座席が閉まる。トヨタのコンフォートがタクシープールを飛び出していった。
ひとり残された男。哀れだな、と観察していると、その男は、ぼくの運転しているタクシーに向かって歩き出した。
ああ、観察している場合じゃない。俺の客だよ。
後ろのドアを開けた。
乗り込んできた男は、アルコールの匂いと、怒気を車内に充満させた。
「子安3丁目の交差点まで」
「かしこまりました」
後部座席からは、ゆるやかな振動を感じる。
男が貧乏ゆすりをしているのだ。ついさっき、女性にふられたことを怒っているのは明らかだった。
「その信号で止めて」
「かしこまりました」
停車した。
「おい!!停車、と行った場所から2メートルも行きすぎているぞ!!」
「2メートルですか」
「2メートルだよ」
「すみませんでした」
「てめえ、それでプロか」
「すみません」
男は千円札を出した。おつりを渡したら、出ていった。
あの程度のことで怒るなよ。だから女に拒絶されるんだよ。頭を切り替えて、流し営業のためにコンフォートのアクセルを踏んだ。
コロナ禍で人出が減った、横浜市鶴見区の街は暗い。あの男の女運も暗い。
川崎市川崎区の路地。居酒屋があつまっている路地を流していると、中年の男女がいた。男が手を上げた。
「ニューヨークまで行ってくれ」
一瞬、ニューヨーク行きの羽田空港発の飛行機に乗るお客さんか、と考えた。しかし、ふたりとも軽装で手ぶらだ。国際線に乗るならば、大きな旅行用カバンをもっているはずだ。瞬間的に、この客は羽田を目指していない、と気づいた。頭をフル回転させた。
「あのう。ホテルのニューヨークですか」
「アメリカと思ったか?」
「いえ、あのニューヨークは有名ですから」
「じゃあ、早く出して」
国道15号線沿いに、ラブホテル「ニューヨーク」がある。ホテルの屋上には、自由の女神像があり、照明で照らされている。我々タクシードライバーにとってはランドマークになっているラブホテルだ。「羽田空港ですか?」と声をかけていたら大恥を掻くところだった。
そうはいっても、川崎は羽田空港に近い。国際線ターミナルに、友人や家族を迎えに行く客はいる。軽装でも羽田空港に向かう人は少なくない。目的地はしっかり確認しないといけない。
二人をラブホテル「ニューヨーク」の玄関前まで乗せた。2千円の現金払いだった。おつりはとっておいてくれ。二人仲良く手をつないでホテルのなかに入っていった。女は車内でひとこともしゃべっていない。
ラブホテルのフロントで、好みの内装の部屋を選び、ふたりが抱擁して、性行為をはじめる。その様子を一瞬だけ想像した。しかし、タクドラは二人の顔を見ていない。声を聞いているだけだ。顔のない男女のからみしか想像できない。あの二人も僕の顔を知らない。たがいに客とタクドラとして声をかわしただけだ。たがいのプライバシーは知らないまま、数分だけ車内で一緒になった。それだけだ。
ハンドルを握り直して、繁華街に向かって走り出す。
「ラブホテルに行く前に、男は女から合意をとっておくべし」
夜の街を走るタクドラから伝えられる教訓はそれだけだ。