「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある」
安部公房の『箱男』に出てくる言葉だが、これはそっくりそのまま「触れる」ことと「触れられる」ことにもあてはまるだろう。勿論それはケースバイケースだとかそういう話ではなくて、そういう「芽」のようなものが、あるいは「気配」のようなものがそこにはある、ということだろう。
人は人を必要とする。話したいと思う。触りたいと思う。それは時に愛と呼ばれたり、時に暴力と呼ばれたりする。世界が人の数だけあるように、全ての行為は同時に無数に存在する。カメラが世界ではなく視点を残すように、世界は無限にある。
多くの人は、恋に落ちた時、相手の体を求めるようになるだろう。人は眼だけでも恋をするし、言葉だけでも恋をする。それでも恋に落ちたら、眼を瞑ればその人の身体を思い浮かべ、触れたいと思うだろう。抱き合って、手を握り、髪を撫で、肌に、そして性器に触れたいと思うだろう。あるいはそうされることを思うだろう。そうではない恋もあるという当然のことは、ここでは置いておく。
これは何なのだろう。この、触れたいという、苦しい願望。そして人は何故、触れたいのに、触れられたいのに、そしてそのことを時に憎悪するのだろう。
「触れることには愛があるが、触れられることには憎悪がある」
人は略奪したい生き物だ。物質も、精神も、飽きることなく奪いたい生き物だ。かつて隣村の作物を奪いに行った我々は、今は感謝や共感を奪いにいく。飽きることはない。満たされることもない。草花が水と光を欲するように、僕たちは承認を貪って生きている。それは終わらない。愛情も欲望も、均衡することはあり得ない。それは常に何らかの搾取であって、人は傷付き傷付ける。それでもその均衡があり得る瞬間というものがある。あるいは、あって欲しいと願う。あったと信じる。信じたいと思う。
見ることと見られることが、触れることと触れられることが、ぴったり等しくなる時。全ての相反するものが、混濁して溶け合う時。恐らくそれだけが、全てに対して垂直に立っている瞬間のことなのだろう。それは美しく、あまりに無意味で、どうしようもないものだ。そしてその均衡は、次の瞬間には崩壊する。重なり合うことが出来るのは、一瞬だけだ。
それでも人は相も変わらず、触れたいと思う。愛したいと思う。つくづく、馬鹿げているなぁと思う。そして愛しいと思う。何度も何度もトライして、失敗して、罪を犯して、涙を流して、怒って、憎まれて、そしてまた、目と目が合って、手が触れる。誰かを傷つけることになるかも知れないその手は、でももしかしたら誰かを救ったかも知れない。誰かを愛そうとしたその手は、いつまでも纏わりつく悪夢を生み出すかも知れない。
僕には分からない。触れることが、触れられることが、どのような意味を持つかということについて。きっと、分かるということは無いのだろう。それらは全て個別の意味しか持たず、そしてその個別の意味さえ、誰にも分かり得ないことなのだから。目の数だけ景色があるように、手の数だけ触れると触れられるがある。そしてその数のことを、一瞬だけでも忘れるために、人は恋をするのかも知れない。触れることと、触れられることとの間が、ゼロになる瞬間のために。