見ルと見エルの境目で

私の眼には床の上の紙くずが映らない。

見えていないのか、それとも見ていないのか。
焦茶のフローリングでも、日に焼け白茶色になった畳でも、変わりなくそこに落ちている物に気づけない。

昔、元夫から毎日のように言われていたことを思い出す。
当時、私の一日は娘を幼稚園へと送ってからの正味5時間というところで、朝食の後片付けをしたらさっさと自室にこもりたかった。カウンター越しに食卓テーブル周りを眺め、まぁオッケーかなと立ち去りかけたところで彼の声。
「終わり? そこ!」
「え? あぁゴミね」
「なんで?」
「見えなかった」
「その大きさが?なんで?」
——この不毛なやりとり、何十回しただろう。

毎度「なぜか」を聞かれるので、身体機能としての「視覚」と「認識」を調べたことがある。分かったのは、言ってみれば「眼はカメラ、脳はコンピュータ」だということ。言葉数を増やして説明すると、眼から入った“モノ”の像は網膜に投映され、電気信号に変換される。その信号は視神経を伝って脳に送られ、状態や色味などが知覚処理され、ようやく人は“モノ”を認識できる。その間わずか0.1秒。

理屈は理解できる。だったら、眼に何かが映ったとしても、同時あるいはその前後にもっと重要な情報が入ってきていたら、脳が取捨選択して重要じゃないほうを省くことだってあるんじゃないか?(でなきゃ世界は大変だ)。

実際のところ、コンタクトをしても0.6程度にしかならない視力なのだから、どのみち大して見えていない。見えなかっただけだから、教えてくれたらいつだって対処する。何かが落ちていれば拾うし、汚れがあれば拭き取るなりしてきれいにする。
“見える・見えない”問答にする必要なんてある? と思っていたからなのか。「なんで?」の問いに真摯に答えを説明し続けたところで「言い訳」にしか聞こえなかったらしい。聞き入れられることはなく、私が組み立てた「視覚と認識の理屈」は、役立たないまま記憶の引き出しのどこかに仕舞われた。

それから数年経ち、「カクテルパーティ効果/現象」という言葉が世に広まる。人は騒がしい環境にあっても、雑多な音声の中から、必要な情報・重要な情報をフィルタリングするかのように無意識に選択して聞き分けることができる——という脳の働きを指す心理学用語だ。この聴覚と脳のメカニズムがあるならば、視覚にも同様のメカニズムがあったっておかしくない。
多くの人がそう思った通り、実際に存在した。たくさんの情報の中から自分にとって重要な情報にのみ注意を向ける認知機能を「選択的注意」と言い、聴覚において選択的注意が働く典型例がカクテルパーティ効果。視覚の場合「カラーバス効果」と呼ぶそうだ。

要するに、私の脳のフィルターは限定的なのだと思う。床に落ちている紙くずは私にとって重要じゃない。あっても生活の妨げにならないし、すぐさま取り除く必要性も感じない。だから、網膜に映し出され視覚情報として信号に変換されたとしても、脳が弾いて認識には至らない。そして、紙くずは瞬時に床と一体化する。

“見る”に値する対象をより分ける大量のアームロボットが脳の中で稼動しているシーンを想像したら、フィニアスとファーブ感満載で可笑しくなった(「フィニアスとファーブ」はアメリカの人気キッズアニメ。おふざけ+発明+プチ科学の渾然感が大変おすすめ)。

一方で、脳のアームロボットが高速かつ緻密に機能する場面もある。運のいいことに、私はそれを活用できる職に就いた。

文字や文章の誤りを正す校正、原稿に書かれている文章を読み、内容の誤りと情報の過不足を修正・確認・指摘する校閲という仕事は、どちらも「見つけ出す」ことが作業の大半を占める。正確さは欠かせない。ただしスピードも必要で、思考の速さで競えない私が校正歴二十数年と言えるのは、たぶん「見る」を助けてくれている「脳のアームロボット」のおかげだろう。

印刷前の校正刷り(ゲラ)を机の上に広げ、あるいは、12.9インチiPad Proの画面にゲラのデータを映し出し、ペンを片手に文章を読み込んでいく。上から順に、ゆっくりと文字を追い進めていくうちに、ふと視線が止まる。一箇所がズームアップされたかのように、強調がかかったように見えるのだ。誤りを認識して目を留めたというより、違和感のある部分にセンサーが引っかかった、そんな感覚だろうか。

「ただの勘でしょ」と言われがちなこの現象は、二十数年の経験と合わさってわりあい高い精度で当たってくれる。あとは、脳のアームロボットがつかみ出したその箇所を注意深く調べ直せば、必要な答えが手に入る。

日常生活には大して役に立っていない私の「見る」と「見える」の能力は、校正・校閲という仕事にはうまくハマったようである。脳の引き出しにしまい込んでしまった「視覚と認識の理屈」にも五分の理ぐらいはあったのかもしれない。

ちなみに、愉しむための読書で脳のアームが働くことはない。何よりの楽しみを失わずにすんだのは幸いだ。人間の身体機能はまったくうまくできている。

仕事でもプライベートでも“見て”ばかりの日々。焦点が合わなくなってきたら、私は子イモリの水槽に目を移す。ヒクヒクのどを動かしながら、20秒かけて前足を一歩、また20秒かけて頭を右に。ゆっくり、ゆっくりとわずかな動作を繰り返す。彼らはきっと違う時間軸で生きているに違いない。

子イモリを眺めているとき、私の意識は水槽の中の時間軸にシンクロする。そして、目の周りのこわばりと痙攣がいつの間にか消えていることに気づくのだ。動かない文字を追い続ける私の眼と心は、小さな生き物のきわめてのろい動作にやすらぐらしい。

文章を読み、子イモリを眼に映す、の繰り返し。
「見る」と「見える」と「映る」と「認識」
——その狭間で揺蕩いながら、今日も私は文字を見る。

created by T.hina