装いは欲望する

 人は誰のために装うのだろうか。この問いを道行く人に問いかけたなら、「自分のため」「他者のため」と答えが分かれるかもしれない。しかし果たしてそれは、二つの別の目的として完全に分けられるものなのだろうか。

 高校生のとき、一瞬だが父親の事業が大当たりし、家が裕福になったことがあった。

 当時私は思春期で多感、おしゃれにも敏感で、『Cancam』『AneCan』『PINKY』等を毎月熟読していた。エビちゃん・モエちゃん(蛯原友里さん、押切もえさん)が表紙を連続で飾っていた頃のことだ。北川景子さんや木村カエラさんがモデルとして掲載されていた時代の『SEVENTEEN』も年相応に読んでいたが、あくまで制服のおしゃれの見本としていただけで、私服はバリキャリOLそのものだった。

 その頃の私は学校で、化粧禁止なのにばっちり化粧をし、ランコムの香水をつけ、時にはエクステまでつけていて、大抵巻き髪にしていた。髪を染めてこそいなかったものの、パッと見はギャルに少し寄りぎみの所謂「女子高生」だった。

 プライベートでは10万円ほどするBALLYのブーツにバリキャリOL御用達ブランドのトップスやスカートを身に着け、CHANELやFENDIのマフラーをしてGUCCIやLOUIS VUITTONの鞄を持ち、TIFFANY&Co.の腕時計をしていた。わかりやすく、ブランドものの服や鞄に囲まれた生活をしていたのだ。

 それまでほとんど子育てに参画してこなかった父親は、「次は店の端から端まで服を買うたるからな」と言って、買い物帰りに回らない寿司屋で寿司をたらふく食べさせてくれた。当時の私はそんな父親が誇らしく、高額な洋服に身を包むことができる自分が好きだった。紋切型の成金像が今となってはとても恥ずかしいけれど、いい体験をさせてもらったことには父親に感謝している。

 このときの自分を振り返ると、「誰のために」このような恰好をしていたのだろうか、ということを思う。雑誌で研究した自分の美意識を信じてそれを体現するため、つまり自分の自己満足のためだったのだろう、とこの文章を書くまでは思っていた。しかし、ここで当時の記憶を辿っていくと、それだけではないかもしれないと思うようになった。

 服や鞄を買いに行くときは必ず父親と一緒だったのだが、最初の方、父親は私に「これとこれとこれを着てみなさい、靴はこれ」と指示をいくつか出していた。私にはハイブランドなものを着る機会がそれまでにそもそもなかったし、最初の1着を手に取るのには勇気が必要だった。買い物をするときに、父親好みのワンピースで明らかに私好みではない、何かの社交場に行くときに着るようなワンピースを色違いで2着買ってもらったこともあった。父親にとって一種の着せ替え人形になっていたような感覚を持ったことを記憶している。

 そんなつもりは全くなかったのかもしれないし、これは私の推測だが、あのとき父親は父親なりに「ハイソサエティな人間の身だしなみ」がどういうものであるのかを私に教えようとしてくれたような気がする。同時に、私は上場を間近に控える中小企業の社長である「父親」という他者のために、自分の身なりを整えていたように思う。

 大人になって、私は残念ながらハイブランドの服を買えるようなお給料をもらえる職場には就職しなかった。なので、プチプラ(安価)でおしゃれな服をどう見つけるかということに全力を注いだ。それなりに探せばあるもので、自分なりに好きな服を見繕ってはオフィスカジュアルの装いを楽しんだ。

 これは完全に自分の欲望を満たすための買い物だろうと考えたとき、またそこにハテナマークが浮き上がってくる。

 20代の私は「モテたい」と思っていた。女性として「おしゃれに見られたい」。「かわいいと思われたい」。そういった感情が自分の中に確かにあることに気が付いたのである。

 つまり「自分の欲望」から身だしなみを整える(=自分のための装い)と同時に、「他者の欲望」の対象とされたいという思い(=他者のための装い)からおしゃれをし、化粧をする自分がいることに気がついたのだ。

 私はヘテロセクシャルなので、男性の欲望の対象となるように自分を着飾っていた。つまりは、自分の欲望と同時に「不特定多数の」他者の欲望を満足させたいという思いから、自らを衣服や化粧品で装うようになったのだ。

 数年前、大学時代の後輩で、アパレル業界と出版業界という二足の草鞋を履いて働いている男性と、初めてサシで飲みに行ったことがあった。

 約束の時間ちょうどくらいに下北沢に来た彼の肌を見ると、化粧下地が少しだけ(ほんの少しだけ)ヨレているのが目についた。しかし、思考がまだ旧世代からアップデートされていない私は「男性が化粧をしている」ということにただただ驚き、その「ヨレ」さえもうつくしく感じた。

 彼はアパレル店員だけあって、ハイブランドだが上品で洗練された、しかしカジュアルなとても小洒落た洋服を着こなしていた。男性向けの化粧品が昨今少しずつ市民権を得てきたその先駆けは、彼のような人の存在がその所以なのだろうと思った。彼の装いは一体何を欲望し、何に欲望されていたのだろうか。

 30代になった私は、薬の副作用で太ってしまい、オールシーズン黒いワンピースばかり着ている。体型を隠すというただそれだけのためにだ。あんなに好きだったおしゃれも、太ってしまっては着られない服だらけである。でも今は、そんな私を「かわいいね」と言ってくれる優しい彼がいる。彼はもうすぐ夫になる。彼のその「かわいいね」という一言によって一瞬で吹き飛んでしまうのが、「モテ」を欲望する私の存在、つまり不特定多数の他者から欲望される装いだ。

 一見すると、自分が着たいと思う服だけを着ているようだが、装うことには必ず誰かからどのように見られるか/見られたいかという社会性が内包されていて、無意識下では自分がどのように欲望されたいかという自意識が同時に存在している。

 欲望する側としての自己と欲望される側としての自己の絡まりがそれぞれの人の中にグラデーションを作っている。自分の装いの変遷や他者の装いを見るにつけ、これらの欲望のぶつかり合いがとても人間らしく愛おしいと、つくづく私は思うのだ。

誰のために装うのか。あなたは、考えたことがありますか?