占いは信じない、好きじゃない方が、現代の日本語圏においては科学的で、知的で、正しくて、マジョリティのありようだとはわたしも思う。だから聞いてもないのに己の占いに対する否定的なスタンスをきゃんきゃんと主張する人間に、わたしは笑顔で応じる。そうなんですねー!そんなわたしは、星を読む占星術師だ。
それでも、きゃんきゃん言いたくなる人の気持ちはわたしも分かる。わたしも占いは信じてなかったし、嫌いだった。第一にあの一方的な感じが腹立たしい。しかし、なんでそう言える?という傲慢さがあったからこそ、わたしは自分で西洋占星術を学び、自分でホロスコープの読み書きが出来るようになった。
直観、予感、第六感。神。気持ち。適性、未来、希望。目には見えないものがこの地球上にはいろいろとある。
占いは、見えないものに対する本来はそれぞれの接し方がある個人的な領域に、占いだからと言い訳しながらやすやすと境界線を越えコメントしてしまえる要素があるからこわい。
だからこそわたしは西洋占星術によって立つ。西洋占星術は「なぜそう言えるか」のホロスコープを再現、検討、議論することができるからだ。とはいえわたしはその西洋占星術すらも恐ろしく感じることがある。
本当はここまで西洋占星術を学ぶつもりはなかった。なんなら最初は他人のホロスコープは見ないという自分ルールを課していた。というのも、他人や他人の人生を、ホロスコープの色メガネを通してまなざしたくなかったからだ。だから占星術はわたしにとって秘密の営みだった。
だけど、友達の友達である占星術師の方に出会う機会がありそのように話してみたところ、「もし目が悪かったらたとえ色がついてても度数が入ってる方がいいよね。そもそも裸眼でちゃんと見えてると思う方が僭越だと思う。」と言われたのが衝撃だったし、わたしはその例えに納得した。以降、他人にお願いして出生時刻を聞き、時には Facebook の情報を拝借し、ホロスコープをたくさん作成して読んだ。
西洋占星術で具体的な出来事、職業や恋愛や家庭などについて言い当てるには、正確な出生時刻の情報が必要になる。分単位で結果が変わってしまうので、母子手帳での出生時刻の確認をお願いしている。
時刻が分からない、だいたいしか分からない場合は、その人の気持ちの指向性、方向性、目指す方向しか読めないのだが、出来事と違って内面に関するコミュニケーションはなかなか難しい。納得感を持つ人とそうでない人、それぞれたくさんフィードバックを貰ったし、納得感に対する傾向は分かってはいるが、ここでは秘密だ。
そして、そもそもみんな自分の気持ちは自分で完全に分かっていると思うこと自体が疑わしいと思うようになった。それはわたし自身も含めてだ。あなたが欲しいのは、本当にあなた自身が欲しいもの?周りのみんなが持っているから、周りのみんなが欲しがるから欲しいもの?
わたし自身、自分で自分のホロスコープを読んで耳が痛い思いをするという、盛大なひとりずもうをたくさんしたし、とはいえ一方で何を受け入れて何を受け入れないかを取捨選択する舵取りは、自身から明け渡さない方がいいとは思う。
何らかの分野で輝く人のことを「スター」と言ったりするが、これは文字通りStar、自分のホロスコープの星を輝かせられている、感じるままに輝いている状態だとわたしは思っている。これはべつに自分のホロスコープを知らなくても達成できる。
占いを好きでも嫌いでも、信じてようとなかろうと、みんながそれぞれ自分の星を輝かせられますよう。