不安の解消と安心の、その先へ

占いと友人と私

 占いは嫌いではありません。

 星座占いを目にすればラッキーカラーが気になるし、たまたまその色を身につけていれば「運の流れに沿ってるな~」と思います。気になる男の人がいればなんとなく相性も気になって、占いサイトで占ってみることも。

 占い師の方に占ってもらったことも1度だけあります。たまたま知り合った方がタロットをする方で、友達と2人で占ってもらったのです。そのとき私はあまり占ってほしいことがなく、全体運をざっくりと見てもらったのですが「他の人の問題をその本人よりも考え込んでしまうことがありませんか?」と言われ、私がうなずくより先に友達がめちゃくちゃ同意していたことを覚えています(友達は私のことをよく分かってくれています)。

うちにあった唯一の占いっぽいものです

 私の友人はよく占いに行くようです。その子たちに「何を占ってもらうの?」と尋ねると、やっぱり恋愛関係のようでした。でも、占いの結果を受けて何か行動を起こすことはないみたい。「都合のいいことだけ信じる(友人Y)」「当たってるかどうかは気にする(友人M)」とのことでした。占いは一種の娯楽なんだなぁ、と思った次第。

書物占い・ビブリオマンシー

 ビブリオマンシーという占いがあります。

 書物占い。占いたいことを心に思いながら本をぱっと開いて、そのページにある単語・文章を解釈する占いです。聖書や詩集が使われるのが一般的ですが、いろんな本で占う人がいます。ビブリオマンシー用の本もあったりして。

 小さい頃、よくやっていました。そのころ、私の家には聖書も詩集もありませんでした(聖書は今もないですが)。昔、「My Birthday」という占いやファッション、恋愛系などがたくさん載ったティーン雑誌があって、その付録に小さなビブリオマンシー用の冊子がついてきたんです。

 手のひらほどの大きさの冊子は100ページほどで、どのページにも少女雑誌らしいやさしいことばで書かれたアドバイスときれいな絵がついていました。妖精や天使のイラストが多かったと思います。絵を見るだけで楽しいものでした。

 私の好きな歌人(短歌を書く人のことをいいます)は占いもよくする人なのですが、たまにYouTubeでビブリオマンシーを配信しています。ご自身の小説で占っていることが多いです。YouTubeなので、見るタイミングは人によってまちまちです。偶然の一致(『セレンディピティ』と最近、言いますね。なんか違う?)によって視聴者その人にそのとき必要なメッセージになっている、とのことでした。

 どの占いにもいえることかもしれませんが、ビブリオマンシーは特に想像力や創造力が必要な占いだと思います。占う側にも、占われる側にも。
 けれども、タロットや四柱推命、手相占いやホロスコープは専門知識がたくさん必要な占いと比べて、好きな本で気軽に占えるのでとっつきやすいかもしれません。自分の想像力・創造力次第(人生全般にもいえることやな…)。

みんな、何で占いたいんだろう

 今月のテーマをもらってから、占いについて思いを巡らせていました。朝のニュース番組での星座占い。幼い頃、花弁をちぎって「すき、きらい」と唱えた花占い。変わった夢を見て起きた朝には夢占いも気になります。

 なんで私は、というか人は、そんなに占いたいんでしょう。

 友人に占いについて聞いたときには、娯楽の一種なんだと思っていました。彼女たちは、占いの結果を聞いても何もしないと言っていたから。友人の1人は、私が占いのことをLINEでいろいろ訊いた後に、思い立って1人で占いに行ってみたそうです。恋愛のことで迷いがあっていろいろと占ってもらったようですが、腹は決まらずに悩み続けていました。

 ふと古代のことに思いを馳せました。亀の甲羅に穴を開けて焼けた棒を差し込み、生じたひびで吉凶を占う「亀占(きぼく)」。シカの肩の骨を焼いて、やはりひびを見て占う「太占(ふとまに)」。占う人がモノに行為を加え、その結果モノがどうなるかを人が判断するというかたちはタロットやビブリオマンシーと変わりません。

 古代の人たちは、きっとそれで次の行動を決めたのだと思います。どの方角に移動しようとか、作物の不作の原因は何かとか。
 でも私たちは多くの場合、何も行動を起こしません。行動を起こしたら「ちょっと占いにのめり込みすぎでは?」と感じる人も多いはず。占いには「現状を教えてくれるタイプ」と「未来を視てくれるタイプ」があると感じているのですが、未来を視てもらっても「じゃあこうしよう」とあっさり変える人は少ないように思います。

 みんな不安なんだ。みんな安心したいんだ。そうも思うし、純粋に未来を知った気になれるのは楽しくもあります。
 ただ、何か別の理由があるのかな、とも感じています。あったらいいな。不安の解消や安心を得るためだけに何千年もこの営みが続いているというのは、少し寂しい。

 その理由が何か、というのを私は提示できないのですが、ふと考えてしまいました。