「日本は恥の文化、空気を読むことで己を律する。一方で欧米は罪の文化、自律的に己を律する」とアメリカの日本文化研究者は説明した、と中学の社会科の授業で学んだとき、
わたしは何だか恥ずかしい気分になった。
ちなみにこれは、1946年 ルース・ベネディクト著の「菊と刀」内での著述である。
恥。恥ずかしいという感情との付き合い方はむつかしい。
恥の文化。家の恥、会社の恥、学校の恥、地元の恥…たしかに日本で生まれた私は、コミュニティ単位におけるネガティブなものとしての恥の感覚を、大人や年長者、環境、メディア、社会から教えられて育ってきた。それは主に自分が怒られたり非難される・誰かが誰かにしているタイミングでの文脈だ。結果、自分の感覚としてもこの「xxの恥」という感覚を知る大人となった。いやこの感じ、欧米人だってきっと知っているとは思うのだけれど。
ただ、「恥」とはこういうネガティブな感情・感覚だけではないと思う。「恥」にも陽な側面があるはずなのに、表立って取り沙汰されることはあまりに少ない。
恥。「恥じらい」とは、人の心のとても柔らかな部分だと思う。
他人の恥じらいを、自分の恥じらいを尊重することは、とてもやさしさのある行為だ。わざわざみだりに恥部へ触れない振る舞いは、とてもやさしい。
一方で人が勇気を出してベールを脱ぎ、自分の恥じらいの柔らかな部分を他人に触れさせたとき、その2人の関係性は特別なものとなる。ことが、まれに起こる。たとえば秘密の打ち明け話が通じあったいう実感を持てたとき。心の柔らかな部分を介し、開かれていない関係が密やかに成立したときに感じる、人生の素晴らしさ。
「人」には「平等で、公平でありなさい。」これもまるで美徳のように、特に幼少期は教え込まれる類の概念の「人」を、心から本気であまねくみんなに等しく接することが大切だということ。だと、幼い私は自分なりに理解した。理解してしまった。もちろん私にも特別な友達はいたし、正直なところ仲間はずれだってしたこともあるが、そんな自分は悪い子だという意識もあった。
平等公平は確かに大切だ。他方で、ひとり対ひとりの特別な関係性だって重要なものだ。恥じらいがまつわる場合、コミュニティ内でも情報の不均衡はあって然るべきものだ。もちろん蚊帳の外にされた側の者にとっては、面白くないものではあるけれど。
わたしの恥ずかしいこと(恥)は、そのことをなかなか理解できていなかったことだ。
「かめちゃんには話すけど、ほかの人には言わないで」は、ほかの人に言うなと言われたから言わないけれど、私以外にも開かれている方が本人にとっても問題解決につながる機会が多そうやーん!もったいないなぁ、集合知すごいよ!ぐらいに捉えていた。
仕事のグループでのコミュニケーションにおいて、グループでやり取りをしているのにも関わらず、いちいちすぐTOでの返信に切り替えるタイプの人を、迷惑だなと思っていた。
でもきっとその背景には、みんなの前では言いたくないという「恥じらい」、そういった柔らかなものがあったかもしれないのだ。
恥じらいを形で想像したとき、今のわたしは桃を想像する。柔らかくて、弱々しい産毛が生えている。
大学生のときにコンサル志望で実際にコンサル企業に入社した友達から「ロジカルシンキングとは優しさだ、そこにいる誰もが理解納得出来るコミュニケーションを志向しているからだ」と聞いたとき、わたしは感銘を受けた。
しかし、ロジカルに伝えない、ロジカルに聞かない優しさも、ある。「で、結局イシューは何?」つまびらかにしていく作業は、時に明解で時に無粋だ。
桃をぐっと力を入れて持つと、表面はへこみ、うぶ毛は抜け落ちてしまうのだから。
その柔らかい表面を柔らかく撫でたとき、撫でることができたとき。桃に触れる手触りはとても気持ちが良い。
きっと優しく撫でられた桃も、気持ち良いんだろうと思う。わたしたちが特別な相手から、自分の恥じらいという心の柔らかな部分を優しく触れてもらったときみたいに。