アパートメント 第一話―春風

 小さいころは、春と言えば4月のことで、桜も4月になれば勝手に咲くものだと思ってた。ランドセルを背負って学校に行くのは4月からだし、月めくりカレンダーに桜の絵が載るのだって4月だったもの。全国一律の暦よりも、季節のバトンはもっとゆるやかになめらかに手渡されてゆくこと、桜の花は3月から5月にかけて、日本列島の南から北まで波打つように目醒めては消えてゆくのだということを、肌で理解したのは案外最近のことかもしれない。
 四半世紀の3分の2は、半径1キロの世界が全てだった。各駅電車と坂道の通学路、グラウンドの砂埃に空色のカーテン、踊り場のひそひそ話、教科書の落書き。4月の春の重大事は、掲示板に貼り出されるクラス割り。桜は単なる背景で、いつ花開いたかなんてどうでもよかった。
 上京してからようやく、街を歩くということを覚えた。代々木公園、外堀通り、目黒川に隅田川、桜の季節に自転車で風を感じるのが好きだった。東京という街の営み、そこでの季節のサイクルに少しずつ呼吸が合ってきて、いとおしさが増してきたところでこの街を出ることになった。東北道を上る深夜バスや、太平洋を渡る飛行機に運ばれて、北へ東へと地図が拡がっていく。前の年とは違う土地でむかえる4月。そこでは桜は遅いのだと知った。待ってるあいだ、ふと手のひらを覗き込めば、電子の海を流れる無数の言葉と写真。時差も緯度差もなんのその、南の都では一足先に満開の宴。あれ、春ってどこだっけ。
 目まぐるしく変わる景色、前後運動を繰り返す時計の針に翻弄され、杭を立てる場所を見失う。途方に暮れて立ち尽くしている僕を、誰かが遠くから呼んでいる。そこで目が覚めた。ずいぶん寝たらしい。もう9時だ。あの声は誰だったのだろう。天井を見上げながら考えたけれど、どうにも思い出せない。
 今日は4月3日。このアパートメントに入居して1週間が経つ。白いレンガ造りの壁に赤い屋根、エンジ色の木製扉。玄関横、高さ5メートルほどの樫の木が寄り添うように立っている。常緑樹はホッとする。ときおり黒猫が庭にやってくるけど、まだなついてはくれない。犬には好かれるんだけどなぁ。4階建てで部屋数は20ぐらい。どれも同じ1Kで、家賃も安く、基本的にはごくごく普通のアパートメント。洗面所で顔を洗い、服を着替えて3階の自室を出る。階段を降り、玄関口に差し掛かったところで声をかけられた。

 「あら、お出かけ?」
 「ええ、ちょっとその辺を散歩に。今日は天気が良いので」  
 「そうね、気持ちのいい青空」
 「管理人さんも、お出かけですか」
 「かおり、でいいわよ。わたしはお庭の掃除と水やりに」
 「じゃあ、かおりさん。お掃除、ご一緒してもいいですか。好きなんです」
 「ありがとう。助かるわ」

 かおりさんは、ここの管理人さん。黒くてしっとりしたショートヘアに、細く締まった身体。昼下がりのティータイムの温度で話す。マンションやアパートの管理人さんって、もっと年配の方のイメージだったけど。
 このアパートメントにはひとつだけ変わったところがあって、自前のウェブサイトを持っている。空き部屋情報を載せる不動産サイトというわけではなくて、その時々の入居者が、文章や絵とか写真—要するに何かしら自分の表現物を掲載することが出来るスペースになっている。ウェブ上の入居者のアカウントは、別に本名や部屋番号と紐付けられているわけでもなく、それぞれが別々の日々を営みながら、ときおり気ままにその断片を開示している。これの発案者もかおりさんらしい。このサイトを偶然見つけて、問い合わせてみたら、ちょうど部屋も空いているということだったので、東京に帰ってきて数日で入居した。

 「どうかしら、新生活にはもう慣れた?」
 「大丈夫です。だいたい落ち着いてきました」

 花に水をやりながら横目でたずねるかおりさんに、掃き掃除しながら背中で返事をする。赤いジョウロからチョロチョロ流れる水や、竹ぼうきが石畳を引っ掻く音にかき消されないよう、心持ち声を張る。変にうわずったりしてないだろうか。
 新生活、と言ったって、もはやたいした苦労も無い。
荷物になるものって本と服ぐらいしかないし、それでも段ボール4箱ぐらい。もともとインテリアに凝る趣味もお金もないし、調理器具や食器も最低限。色んな人からの贈り物で、湯呑みやマグカップやグラスの類だけはやたらと数が多い。それらを全部並べて眺めるのが好きだ。今日の夕方、大学の同級生からお古の冷蔵庫を受け取れば、必要なものは全部揃うはず。彼は結婚して静岡へ。奥さんの実家で二世帯生活らしい。「お茶っ葉送るよ」だってさ。
 まだ若いからだと言われればそれまでだけど、衣食住なんて、いつどこへ行ったって別にどうとでもなる。欠けてるのはそう、もっと別のところ。

 「お掃除手伝ってくれてありがとう。よかったら今度管理人室に遊びに来て。まだ夜が少し肌寒いでしょ。うち、こたつ出しっぱなしなのよ」
 「あ、行きたいです。でも気持ちよくってそのままこたつで寝ちゃうかも」
 「いいのよ別に、眠ったって。ゆっくりしてってちょうだい」
 「じゃあ、お言葉に甘えて、今度ぜひ」
 「楽しみにしてるわ。色んなお話聞かせてね」

 かおりさんに箒を返して散歩に出た。住宅街を抜けた先にあるらしい、高台の公園を目指す。細路地を何本か曲がり、車道沿い、三分葉桜の並木道を歩きながら考える。東京に戻ってきた。それで、これからどうしよう。そもそも、どうして帰ってきたんだっけ。春はどこだ、桜はいつだと分かりやすい季節の節目を探し求める一方で、わが身の帰属先すら持てないまま、フラフラと年度を跨いでいる。仕事はどうする。あまりダラダラとはしていられないが、惰性で動けばろくなことにならない。そうこう考えているうちに、道は公園へと続く登り坂へと差し掛かった。やっぱりもう帰ろうかなと思いつつも足を進め、およそ5分ほどで坂を登り切る。
 瞬間、強風が花びらを散らしながら身体の内側を吹き抜ける。心臓と横隔膜がギュッと縮み上がり、思わず両の腕で自分を抱きかかえて身を捩らせる。風はなかなか止まない。4秒、5秒。ようやくおさまり、伏せ閉じた目をそっと開けば、眼下に住宅街が広がっていた。さっきの強風が散らした桜の花びらがまだわずかに下り坂の中空を漂っていて、視線をそのまま遠くへ移せば、穏やかに笑う山々。

あぁ、春だ。帰ってきたんだ、東京に。たったそれだけのことなのに、なぜだかホッとして、泣きたくなる。

新しい季節、新しい暮らし。大丈夫、きっとうまくいく。