檸檬

「我が国には宴席での振る舞いによって人間力がジャッジされるという慣習があって、そのひとつがいわゆる『唐揚げレモン問題』というのだけど、周りの人間に断る前に勝手にレモンを絞って唐揚げにかけるようなやつはけしからんと、レモンが苦手な者もいるかもしれないから配慮せよと、そういうわけだ。あ、かけていい?」
 「いいよ」

 彼はそう断るや否やレモンをギュッと絞りながら卓上の軟骨唐揚げに回しかける。一つ、二つと口に放りこむとほぼ同時に次の言葉を繋ぐ。

 「俺、今まで生きてきてレモンかけちゃダメなケースに出会ったことがないのだけど、まぁでもその気遣い自体は分からんでもない。でね、」

 息継ぎと箸の伸びるのがほぼ同時で、次の瞬間には三つ目の軟骨が口の中に吸い込まれる。

 「俺はこの『唐揚げレモン問題』を聞くとさ、人間社会の査定制度よりも、絞られなかったレモンの人生を考えちゃうわけ。使われることなく皿の片隅に佇むレモン君の心境やいかに。調理場に連れ帰られた後の処遇はいかに。しれっと別の皿で再登板させてもらうのか、千切りキャベツ君と共にダストシュートか。店舗裏ゴミ捨て置き場に出され、運良く路上びとやお犬さまに拾われるのか。あるいは『酢豚のパイナップル問題』でも良い。弾かれたパイナップル君の顛末やいかに!」

 この人は私と会うとき、ぼんやり無口な日と妙に饒舌な日がある。今日は後者。

 「でさ」
 「うん」

 息継ぎ代わりにハイボールを流し込んで、彼はまた話を続ける。

 「だいたい俺はそんな風にして思考が飛び散って、起こりもしない無数のif(イフ)に気を取られるうちに、目の前の現実を置き去りにしてしまうんだな。レモンの人生を気にしている間に美味しい唐揚げをすっかり冷ましちゃうの」

 案の定。自分の内側にモヤが溜まったとき、それをまっすぐに吐き出す術を知らないから、おどけた小話で弾みをつける。

 「色々なものを捨てたくないと思って全部一度に考えようとするでしょ。でも、身体は一つだし、時間は有限だから間に合わないわけです。ダストシュートまでレモンを追っかけて救ってやれるはずもない。だから世間の人たちは、だいたい適当なところで折り合いを付けて、自分が考えて向き合うのはここからここまでって、うまく線引きして生きてるみたいなんだけど、それに気がつくのに自分はずいぶん時間がかかった」

 「まぁ、簡単に切り捨てないのがあなたの良いところだとも思うけど。で、『気づいた』ってことは、何か変わったの?」
 「別に性格とか考え方が大きく変わってってわけじゃないけど、とにかく、決めるってことなんだな、大事なのは」
 
 「へぇ」

 「自分にとって、レモンの切れ端と唐揚げと、どっちが大事かってことを考えなきゃならないんだ。たくさんのレモンを追いかけてる間に、一つしかない唐揚げを他人に取られちゃったり、レモンを絞っても全然美味しくないぐらいに冷めちゃったらどうしようもないんだなって」
 
 
 そこまで話してスッキリしたのか、彼は残りのハイボールを飲み干して、壁に掛かったお品書きの群れに視線を移し、そのままぼんやり無口になった。
 
 
 今日のこの話は、いったい誰との関係においてのことなのか。肝心なことはいつも言わないまま、勝手に悩んで勝手に吐き出して、勝手に満足するのがこの男だ。

聞かない私は、自分が絞られないレモンの方だということを知っている。

ウィークリーマンション

ウィークリーマンションを改修して使っている飯田橋の安ホテル。ツインベッドの上に散らかった浴衣とシーツとタオルと掛け布団をたたみ、昨晩、ワインやつまみをあけるのに使ったグラスと皿をキッチンへ運ぶ。
 
 「もしかしてそれ自分で洗う気?」
 「そうだけど」

 短い髪をドライヤーで乾かし終えてシャワールームから出てきたカナコに、スポンジを泡立てながら応える。

 「後で全部清掃の人がやってくれるじゃない」
 「好きなんだよ、洗い物」

 ふーん、と言いながらカナコは寝室に戻り、床に散乱した服を拾いながら身につけてゆき、そのままベッドへ仰向けに倒れこんだ。
 カナコは化粧をしない。代わりに季節を纏う。夏には夏の疾さを、冬には冬の深さを。

 「私こないだ、鉄塔に登って夕陽に赤ワインをかけてきたわ」
 「へぇ、それはまたご機嫌なことをしたね」
 「だから、夏はもう終わるの」 

 ベッドに横たわって天井を見上げるカナコに返事をしながら、机の上のワインボトルを手に取り、キッチンに戻って逆さにする。ドボドボとシンクに落ちた薄紫は、蛇口から降りてきた水柱に弾き飛ばされてから排水口へと吸い込まれていった。以前いたアパートメントの排水口とはずいぶん形が違う気がしたが、うまく思い出せない。

 それから僕らはエアコンを切って外へ出た。8月の際まで追い詰められた夏は最後の反撃を見せ、焼けたコンクリートから浮かぶ熱気が僕らを襲う。これはすぐにでも駅へと避難したいところだが、道の白いところからはみ出るとマグマに溶かされて死んでしまうから、気をつけて進まなければならない。
 
 「あなたって、アドベンチャーだわ」
 「運動神経、悪いけどね」 

 
 駅前の五叉路のところにあるチェーンのそば屋できつねそばをふうふう言いながら食べ、そこから駅へ向かって電車に乗り、浜松町からの空港行きモノレールの改札まで来た。

 「身軽ね」

 僕の荷物を改めて見たカナコが言う。

 「飽きっぽいんだ」
 「モノもヒトも鮮度が大事よ。悪いことじゃないわ」

 言い終わるとカナコは姿を消し、僕は改札を通ってモノレールに乗り込んだ。車中でポストカードを一枚取り出し、「夏はもう終わるらしい」と一言書いて、宛名に大学の同級生の名前を書いた。彼が今どこで何をしているのか、同じところにまだ住んでいるのかは知らない。僕も差出人のところにデタラメの「住所」を書いた。

 空港の郵便局でポストカードを投函し、荷物を預けてゲートをくぐる。浅い眠りと気楽な映画を何セットか繰り返せばまたあの街に着くだろう

アパートメント 第九話―扉の向こう

 通った学校は、小中高と全部、屋上が立ち入り禁止だった。背の低い僕は、地面に近い視線の世界を生きるのに満足していて、鍵を破って侵入するだけの冒険心も好奇心も持ちあわせていなかったから、この歳になるまで、屋上から街を見下ろした記憶がほとんど無い。 

 入居して2ヶ月経って、アパートメントの屋上にはじめて上った。マリさんが座っていて、イーゼルにカンバスを広げて絵筆を走らせている。描いているのは眼下の街や見上げた空ではなくて、だけどどこかよく似た世界。隣に立って、ぼんやり遠くを眺め、筆の音を聞く。

 「よくここに来るんですか」
 「うん、気に入ってるの。ここにいると、時々いい風が入ってきて、乗ると筆がよく踊ってくれるから」
 「今日みたいに、風の無い日は、どうですか」 
 「確かに今日は静かだね。でも、必ずしも風が吹いてなくたっていいの。わずかな空気の淀みとか、私たちに働く重力とか、感じて従うことが出来れば、少し自由になれる」
 マリさんは筆を止めないまま呟く。小柄でなで肩な彼女の身体は、きっとその流れの中を抵抗なく泳ぐのにぴったりなのだろうなと思った。

 「僕も今度、書くのに行き詰まったら、部屋に篭ってないでここに来ようかな。そしたらちょっとは捗るかも」
 「うん、またおいで。かおりさんも時々踊りに来てる」 
 
 
  
 階段を降りて1階でかおりさんと出会う。いつものように一緒に庭の掃除をする。

 「踊りのお誘い、ありがとうございました。すごく良かったです」
 「こちらこそ、観に来てくれて、ありがとう」 
 よく晴れた日。こないだ暗闇の中で踊っていたかおりさんは、今日は太陽の下、鼻歌交じりに花に水をやっている。

 「かおりさんは、どうしてここの管理人もやってるんですか。来る人を迎えて、みんなの世話をして、出る人を見送る仕事…踊っている時の印象とはギャップがあって」
 「別に私、大した世話なんてしてないわ。みんなが、好き勝手にやっているのを眺めてるだけで。始めたきっかけはむしろ…私が必要としてたのかもしれない、着地する場所」
 「それは、ホームみたいなところ?」
 「そうかもしれないけど…ううん、もっとささやかなものでいいの」
 ふたり掃除の手を止めて、アパートメントのベランダを眺めながら言葉を探す。

 「みんなが自分の部屋で何をしているのか、毎日このアパートメントの外でどんなことをして、そして帰ってくるのか、わたしはほとんど知らない」
 「僕もほとんど知らない。みんなそれぞれ、ひとりで生きてる」
 「うん、だからね、ひとつ屋根の下、『家族』だなんて言うにはちょっと遠いし、照れくさいかな。偶然流れ着いた他人同士だもの。だけどやっぱり、時折交わったり、開いたりするでしょ。管理人室で おしゃべりしたり、ネットで作品を見せ合ったり…それぐらいの距離に誰かがいてくれるって、いつも一緒じゃなくてもね、とても嬉しいなぁって、私は思うの」
 「そうですね。夏祭りの日、屋上から花火を見つければ駆け下りてみんなを呼ぶことも出来るし、寒い冬の日には、シチューが冷めないうちに扉を開けて届けにも行ける。ひとりの時間とひとりの時間が、その時ちょっとだけ、横に繋がったりなんかして」
 
 門の外から優しい風が吹き込んできてふたりを包んだから、そこで僕らは口を閉じることにした。しばらくして、思い出したように掃除を再開し、それからまた、かおりさんが思い出したように言葉を発する。
 
 「そうそう、夏と言えばね。このアパートメントにもう一人管理人がいて、はるえって言うんだけど、夏に東京に帰ってくるの」
 「そしたらみんなでBBQでもしましょうよ。屋上で、ビール片手に花火眺めて」
 「わぁ、すっごく素敵ね。楽しみだなぁ」

 少し先の未来の空想や計画をいくつか重ね合わせながら掃除を終え、それから僕は散歩に出た。路地を曲がり、並木道を登って高台の公園へ。
 
 
 満足していたというのはきっと嘘で、意地と臆病で突っぱねていただけなんだ。背伸びしたって飛び跳ねたって、どうせすぐ小さな現実へ戻ってくるんだから、だったら別に見えなくたっていいや、って。今は、ちょっと違う。飛んだ先で出会う人や風景が、僕を開いてくれることを知っている。たとえ帰る先がいつもと変わらぬ小さな自分でも、風を連れて帰れば少しだけ新しくなれることを知っている。
 
 
 公園にはもう紫陽花が咲いていた。梅雨が開けたら、またすぐに空いっぱいの夏がやってくる。今年の花火はどんな色だろう。共に眺めるのはどんな人たちだろう。

アパートメント 第八話―空気の層

 「やっほー、元気してる?」
 「…なんだ、君か。今日はこれから採寸の予約が入ってて忙しいんだけど」
 「もう、まだ何も言ってないってば。ちょっと社会科見学に協力してくれない?邪魔しないからそれぐらいいいでしょ。彼にあなたの仕事見せてやってよ」
 「別に構わないけどさ。またそんな若い青年をつかまえて、ナンパでもしたの?」
 「ふふ、なかなかいいオトコでしょ」
 
 
 面接から1週間経った水曜の午後。根津駅に降り立ち、へび道をくねくねと歩いた後にたどり着いた小さなお店の入り口で、ヒロさんとその男性が話をしている。レジカウンターに座っていた彼は、ラップトップを閉じて立ち上がり、回り込んで僕のところまで出て来てくれた。
 
 「こんにちは」
 「やぁこんにちは。君もまたやっかいな女に目をつけられたね。何に巻き込まれようとしているの?僕はアスカ。ここで服屋をやってる」
 交わした握手が不思議なあたたかみを帯びていて、その華奢な身体つきからは予想もしていなかった感覚に少し驚いた。
 
 「普通に作って売ったりもするけど、うちの仕事のほとんどはオーダーメイドだよ。こっちへおいで」
 服屋と聞いて僕が抱いた疑問を察したのか、アスカさんが先に口を開いた。玄関を背にしてレジ左横にある小スペースにはワンピースやシャツがいくつかかかっていて、値札のタグも付いているけれど、小売の「服屋」と言うにはあまりに数が少ない。
 
  レジカウンターの右奥へと進んだ先の部屋へと通される。実際の面積はそれほど大きくないはずなのに、お店の外観からは想像がつかないぐらい広々とした感じがする。
 
 採寸や試着や、それから撮影もするのだろうか、部屋の右半分はゆったりとスペースがとられていて、簡素な姿見やカメラや照明器具が脇に佇む。
 左手には打ち合わせ用の長テーブル。背後の壁と棚に、色とりどり、様々な素材の生地が収納されている。
 壁の一部にこれまでのお客さんのポートレートがいくらか飾ってあり、先日の舞台衣装を着たかおりさんもその中にいた。
 
 「そろそろ来る頃だな。見るの、別に構わないけど、そっちの事務室の窓から覗いてもらう形で良いかな。少し遠いけど、お客さんを緊張させたくないから。ヒロ、適当にコーヒーでも出してあげて」
 
 
 そこから先は、音の聞こえない時間だった。だけど、お客さんをテーブルに通してお話をし、鏡の前に立たせて採寸をし、またテーブルでお話をする―そうした一連の流れを見ている時間には、まるで映写室から無声映画を覗き見するようなワクワクがあった。

 お客さんの肩にメジャーを当てる時の柔らかい手つき。棚から次々と生地のロールを取り出して、はさみで小さく切り取り見せる様子。それらの動作が進むたび、またその合間にアスカさんから声をかけられるたび、最初は緊張していたお客さんの表情が、どんどんとほぐれていく。
 わたしなんかがオーダーメイドなんて。自信なさげなうつむき。ううんでもやっぱり、せっかくの機会ですもの。決心と勇気のまなざし。隣を歩くとき、彼、喜んでくれるかしら。赤らめた頬。そうそう、初めて出会った時のことなんだけど…天井を見上げて記憶の糸をたぐり寄せる。
 その一つひとつにアスカさんは耳を傾け、時に子どものように驚き、笑い、それから真剣な顔をして質問を返し、提案をする。
 
 
 あのテーブルでは今、お客さんのこれまでの想い出と、これからの未来が交わっているんだ。
 
 
 
 「いいカオしてるでしょ、仕事中のアスカ」
 「ええ、ほんとに」
 「彼ね、わたしの元ダンナ」
 
 「…そうなんですか?」
 「君より若かった頃かなぁ、アスカは私の3歳上なんだけど、まだ駆け出し社会人だったし。駆け落ち同然、本当に二人の勢いだけで結婚してさ、バカみたいでしょ。何があっても一生一緒なんだって、当時は本気で信じ切ってたけど、若い気持ちだけで続くはずもなくてね。1年も経たないうちに離婚しちゃった」

 「2年前に偶然ばったり再会したんだ。別れてから数えたら…もう何年になるんだろうね。わたしはちょうど友人二人と今の会社を立ち上げた頃で、アスカも同じ年に独立した。そのまま流れで、お店のウェブデザインを受注したってわけ」
 タバコをふかしながら、ヒロさんは懐かしそうに目を細める。

 「今、あんな楽しそうに仕事してるけど、付き合ってた当時は、肩の凝るスーツ着て、たくさん資料抱えて営業回るような仕事してた。しんどそうだったな。でも、我慢も応援もうまく出来なかったんだよね、お互い。わたしはわたしで好き勝手やってたけど、必死な時期だったから」
 「それで、二人の関係は、今」
 「ご覧のとおり。仕事相手、それから、いいお友達」
 いいお友達。その響きに、今日の最初に二人の間で交わされた空気を重ね合わせる。
 
 「時々、思い出したように二人でディナーに行ったりする。結婚した当時はそんな余裕も無かったから、皮肉なもんだよね。でもね、昔に戻った話はしないし、それ以上距離を詰めたりしないよ。お互いそれが一番良いと分かってるから」
 「答え合わせは、しないんですね」
 「うん、そういうこと。別れてから再会するまでの間、アスカに何があって、何をしていたかは知らない。でもその空白を埋めたり追求することに意味は無いとわたしは思ってるんだ。今のアスカの作る服、すごく軽くてやわらかい。その名の通り、ほんとに飛んでいけそうな気分になる。それだけで十分だよ」
 服を着ることは、衣そのものだけでなく、空気の層を身に纏うことだという話を思い出した。そのすき間は、人と人が心地よく付き合う上でも必要なことなのかもしれない。

 「若いと、たかだか半年や一年のことでも、それが人生の全てってぐらい絶対的なものに思えてきます。出逢いも別れも、キスもセックスも。でも、人生には強制的なコースチェンジってものがあるんですよね。それも、心の準備や原因の整理なんかさせてくれやしないぐらい突然に」
 「そうだね」
 「後悔や恨みの念に苛まれたりもします。でも結局、事が起こった後に出来ることは、時間に任せる以外に無いんだなって、最近思います」
 「…吹っ切れたみたいだね。前会った時より、いい顔してるよ」
 「ヒロさん。一緒に働かせてもらえますか」
 「もちろん、歓迎するよ。今の君なら、もう大丈夫。きっと繋がる」

アパートメント 第七話―頭の裏

 写真のことはよく分からない。ミーハー心で買ったデジイチも、焦点やら色温度やら調整することが多すぎて使いこなせない。ましてや作品を観て「批評」することなどもってのほかで、前に立ってただ「あぁ、いいな」ぐらいしか言葉が出ない。それなのにどうして僕が写真や、それを撮る人—写真家さんに惹かれるかといったら、むしろ普段の僕の言葉が過剰すぎるからで、写真はそれを黙らせてくれるからだ。撮ることを生業にする人たちは、僕に足りないなめらかさを持っている。
 
 
  
 小伝馬町のギャラリー。ヤマザキさんの個展の撤収作業を手伝っている。かおりさんの管理人室で知り合って以来、「どうせ暇だろう」と僕をよく手伝いに呼びつけてくるのだけど、確かに暇と言えば暇なので毎回付いて行く。バイト代を出してくれるのは求職中の僕に対する心遣いなのだろうとも思う。
 
 
 「毎回すまんな。飲み込みが早くて助かる」
 「大したことしてないですよ、僕。どうせ暇ですし」
 「なんだ、ふてくされて。最近文章も書かないし、どうかしたのか」
 「別にふてくされてるわけじゃないですよ。文章は、書くほどのこともないし、書いてもろくなことにならないんで、書いてないだけです」
 「そういうのをふてくされてるって言うんだ。どうせまたごちゃごちゃ悩んでんだろ。もう出るぞ。ちょっと一杯付き合え」
 「あんまり呑む気分じゃないです」
 「いいから付き合え」

 神田駅から徒歩5分、雑居ビルの地下1階にある家族経営の居酒屋 。せせこましい店内に、仕事帰りのサラリーマンと店員さんの活気づいた声が飛び交う。選択の余地もなくキンキンに冷えたジョッキ生が差し出され、空きっ腹を刺激する。突き出しの枝豆を5房掴んで食べる。旨い。

 「事前にグタグタ言う割に飲み始めると勢い良いよな、お前」
 そう言われれば反論しようがないけれど、結局僕の悩みなんて、胃袋を満たせばごまかせる程度の重さしかないのかもしれない、と、そう思った。
 「なら自分で考えて解決しろ」と、いつもなら頭の裏から説教が聞こえてくるのだけど、思いのほか今日は黙ってくれているものだから、まぁどうせ大したことないし、酒の席のネタになるならいいじゃないのなどど思いながら、

 「女の人ってどうしてあんなに軽やかに次へと抜けていけるんでしょうね」
 ポツリと口にする。
 「なんだ急に、失恋でもしたのか」
 「いや、そういうのとはちょっと違うんですけど」
 あながち外れてもいないツッコミを曖昧な返事で受け流し、冷奴をつまんで、少し黙る。話の先を考えていなかった。
 
 「こないだ初めてかおりさんの踊りを観ました」
 またポロリと言葉を出す。
 「すごかったろう」
 「はい」
 「ああいう踊りは、なかなか観られないぞ」 
 「そう思います」
 言って、あの時の熱がまた蘇ってきそうで、冷えたビールの二杯目を流し込んだ。

 「他人と比べたって仕方ないのは分かっているというか、そもそも自分なんかと比較っておこがましいんですけど」 
 
 「自分の言葉と思考はなんて五月蝿くて過剰なんだろうって、思いますよ、最近」
 ここのお店の名物、チキン南蛮が届いた。ソースがよく絡まっている。僕はそれを二切れ続けて口に入れる。ヤマザキさんは、タコわさをつまみながら、僕の次の言葉を待っている。
 
 「乾いたスポンジみたいにスカスカだから、好奇心だけは旺盛で、外へ外へと出てゆきました。浴びた水分が零れ落ちないようにちゃんと形にしようと思って、あるいは、貰ったものへのささやかなお礼の気持ちを伝えようと思って、文章を書きはじめました。ところが駄目です、言葉を尽くせば尽くすほど、世界はその網目をするりと抜けていってしまいますね。彼女たちは今そのものと歩調と呼吸を合わせて歩んでいるのに、僕はいつも一歩遅れているようです。追いつこう、理解しようと頑張ってるうちに、今度は言葉まで逃げてゆきます」

 「そのうち、人のことも分からなくなります。目の前の人を見ているのか、その人との過去の想い出を見ているのか、怪しいです。積み重ねた過去との一貫性とか、他の人との比較とか、世間体とか、そういうの全部取り払って、芯の想いだけを抽出して相手に贈りたかったはずなのに、いつの間にかがんじがらめです」

 「まぁ、書くというのはある種不自然なプロセスだからな。抽出と翻訳の過程でどうしたって遅れとズレは生じるもんだ。しかし人間はどうあったって言葉でしか思考することが出来ない生き物だから、必然の営みでもある。ただ、お前もかおりさんの踊りを観て―他の女とは何があったか知らんが、理解しているようにな、考えるより動くことで越えられる間合いもあるんだ」
 「きっと、そうなんだと思います」
 「俺たちの場合は、思考より速くシャッターを切る」
 「だから好きです、写真」
 言葉を交わしながら、締めの焼きおにぎりをひとつずつ取ってかじりつく。

 「お前の悩みも分からんでもない。俺も駆け出しの頃、今ここでシャッターを切ることは自分の主義主張の押し付けじゃないかとか、ノスタルジーの道具にしてるんじゃないかとか、撮る前にごちゃごちゃ考えてたことがある。そうこうしているうち現実は、シャッターチャンスはどんどん通りすぎていく。ある時思い切って押してみたら、撮れた写真は軽々と俺のくだらない煩悶を飛び越えてくれていたがね」
 「その、シャッターを切れたきっかけって、何なんですか」
 「きっかけか。よく覚えてない…というかたぶん、無いぞそんなもん」
 「無いんですか、やっぱり」
 「タイミングなんて、かけた時間や煩悶の量とあんまり関係なくフラッとやってくる」
 「そんなもんですかね」
 「そんなもんだ。だからこそ、そんなに焦るな。考えることも書くことも休むことも遊ぶことも、どれがいつどんな結果に結びつくかなんてわからんのだ。だが、それらは全て、お前の『生活』としてあるだろう」
 「『生活』…そうですね、それはずっと続いているものです」
 答えた時、他のお客と店員さんのかけ合いがまた耳に入ってきた。頭の裏からはもう何も聞こえてこない。焼きおにぎりの最後の一口を放り入れる。
   
 
 「ごちそうさまでした」
 「おうよ」
 出されたお茶を飲み干し、会計を済ませて地上に上がる。
 「色々言ったがな、今日のお前の話しぶりは、素朴で良かったぞ。書く時もそれぐらい気を抜けば良いんだ」
 「それたぶん、酒とメシのおかげですよ。現金なもんで」
 そう言って軽く笑った。夜風が気持ち良い。

アパートメント 第六話―熱

地図を見ながら辿り着いた小さなダンスホール。そこでかおりさんが踊っていた。

 「週末、四ツ谷で踊るのよ。よかったら観に来てね」
 そう言ってかおりさんが僕にチケットを差し出したのは、雨の渋谷の翌朝のこと。どこかへ行く当ても誰かと会う約束も持ちあわせていなかった僕に、行かない理由はなかった。

  その日の踊りがどんなもので、それがどんな風に進んでいったかあまり覚えていない。言葉と思考の網が捉えたものはほんの僅かで、部屋に帰った今も身体中を巡る熱だけが、今日の確かさを伝えている。


  
 照明の落ちたホール。客席と舞台の境界も分からない暗闇。かおりさんはいつの間にかそこに存在していて、踊りはもうそこで「続き」として進んでいた。記憶を辿っても「始まり」は見つからない。 
 
 灯された薄暗いライトの下、かおりさんのしなやかな手足と黒いドレスの襞が浮かび上がっては消える。

 ドレスが空気を揺らす音、足が床を打ち、こする音、時折合わさるピアノの音だけがホールに響く。

 かおりさんの視線はホールの中空を見据えていて、僕たち観客の視線と交わることはない。彼女は長い時間をひとりで踊り続けた。観ている僕たちも等しくひとりだった。
 
 
 
 
 情景としてわずかに思い出せるのはその程度で、後は熱だけが事実としてあった。美しさ、儚さ、寂しさ、切なさ…そうしたあらゆる指示語を振り払い、熱を持った動きだけがそこにあった。

 どれだけ言葉を尽くしても、現実はいつも檻をすり抜け、その先をゆく。どれだけ呼吸と体温を近くに感じようと、二人の人間が同じ場所を占めることはない。一度その手を離れたものを、再び同じ状態で取り戻すことはできない。ひとりの人間に残されるのは、連続した不可逆の時間をその身で泳ぎ続けることだけ。かおりさんの踊りはそれを知っていた。

アパートメント 第五話―雨

 この人はなぜ東京にいるのだろう。
 それが初めて出会った時の印象だった。

 今日と同じような雨の渋谷、ハチ公向かいのスタバ前。直前になって約束をすっぽかされた僕は、スクランブル交差点を行き交う傘の群れを眺めていた。しばらくしてふと隣を見たら、彼女もまたひとりで立っていた。僕がそこに来るより早くから、誰を待つともなくずっと交差点を見ている。 
 今からおよそ2年前のこと。それをナンパと分類して良いのなら、きっと僕の唯一の経験だろう。
 
 「よく降るね」
 駅前ビル3階のカフェ。窓際の席から交差点を見下ろし、カモミールティーを口にしながら、初めて会ったあの日と同じように彼女は言う。
 
 「最近、どう?」
 「相変わらずの暮らしだよ」
 「そっか」
 「あなたは?」
 「まだ帰ってきて間もないから、ちょっとした、移行期。でも、そろそろだよ」

 5歳年上の彼女は、都心のはずれ、小さなアパートに息を潜めるようにして暮らしていた。女性らしいインテリアなどひとつもなく、窓際で育つスプラウトの緑だけがその部屋に色彩をもたらしていた。肌は透けるほど白く、か細い身体をしばしば咳でしならせた。そのくせ、よく働く人だった。
 月に一度か二度、夜勤明けの彼女を駅まで迎えにゆき、彼女のアパートでバタートーストを半切れずつ食べ、そのままベッドで隣になって眠る。目覚めた彼女は夢の中、首輪や柵や鳥籠や靴紐…生命を大地に留めるものがおおよそ何一つない世界の話をした。僕はそれに技巧の無い言葉で応え、時折思い出したように肌を重ねた。
 二人が出逢って一緒になることは、きっと書かれていたことのように当然なのだと信じ切っていた。休みの日、たまには贅沢しようと外へ誘い出し、月並みのフレンチレストランで月並みのプレゼントを渡し、スプラウトの無い部屋に泊まったのが、ある暑い夏の日のこと。翌朝彼女が口を開き、それから4時間後には僕たちは別々の電車に乗っていた。
 
 「何ヶ月ぶりだっけ」
 「分かんない」
 「最後に会ってから、また一つ歳をとった」
 「おめでとう」

 「来月には新しい仕事も決まって、生活も収入もちょっとは安定してくると思うんだ。そしたらさ…」
 「そういう話、やめましょう」
 切りだす前に、彼女が話題を制した。改まった話をする前には空虚な世間話しかできなくなる僕の不器用さを、彼女はよく知っていた。

 「あれから考えたんだ。ちょっとは成長もしたと思う」
 制止に構わずに、用意していた言葉を口に出す。
 「もちろん、まだちょっと頼りないかもしれない。だけどこれから」
 「違う、そうじゃない」
 
 「そういうことに、不満があったわけじゃないのよ」
 彼女はそう言って、少し窓の外を見た。 

 「私が悲しかったのはね、私のことを知れば知るほど、あなたの表情に陰りが増えていったこと。昔のヒトと自分を比べたり、年齢やお金のことで気後れする必要なんてなかったのに。身体の病気のこととか、幸せな結婚とか家庭とか、そんなので焦ってくれなくてよかったのに」
 「一緒に生きてくのなら、少しでも幸せな未来を望むのは当然じゃないか」
 「未来に希望を託すほど、私、不幸じゃなかった」
 
 「出逢って間もない頃のこと、今もよく覚えてる。ろくでもない私の部屋を見ても、昔のヒトや家族の話をしても、あなた、バカにもせず、同情も慰めもせず、ただ、うんうんって聞いてくれたでしょ。私、あれだけでもう、救われてたのよ。ああ、生きてていいんだって」
 「そんなのただ、僕の中が空っぽで、言葉も何もなかっただけのことだよ」
 「ううん、違う。言葉が巧ければ良いってものじゃない。あなたの音と体温、私にはちゃんと届いてた」 

 「もうひとつ悲しかったのはね。そうやって一人で焦って悩んで、あなたが私を見る目がどんどん曇っていってしまったこと。素朴に笑うあなたの光に当てられて、私の内側から新芽が育っていってたの、気づいてた?あなたと出逢ってから、私の咳の回数が減っていったの、気づいてた?」
 「私、変わってたのよ。どんどん呼吸が出来るようになった。それはあなたのおかげなのよ。だのに最後の方のあなた、私の背後ばかり見てた。過去から絵の具を引き伸ばして描く未来なんて望んでなかったのに」
 返事を返せないまま、空っぽのコーヒーカップに目をやり、グラスの水を手にとって口に含んだ。
 
 「ごめんね今更。でも、寂しかったとか、我が儘を言いたいわけじゃないの。ただ、あなたが自分を認めてあげられないでいるのが、辛かった。それが私と一緒にいることで助長されるなら、やっぱり一緒にいるべきじゃないと思った」
 

 「あなたはやさしい人だけど」
 そう言って僕を見据えた彼女の瞳には、僕の記憶にない光が宿っていた。
 「ちゃんと自分を生きて。地に足をつけて歩くの。私はもう、大丈夫だから」
 

  
 外に出るともう雨は止んでいて、そのことを受け止めるより早く、彼女はいなくなっていた。

 
 彼女はなぜ東京にいたのだろう。
 雨の渋谷が見せた幻だったのだろうか。 
 いや、そうじゃない。

 僕たち二人の出逢いは確かに書かれていたことで、ただその先のシナリオは、それぞれちょっと違うものを持っていたんだ。それをお互い突き合わせて見せれば良かったのに。

アパートメント 第四話―万華鏡

「来てくれてありがとう。今日はよろしくね」
 「こんにちは。どうぞよろしくお願いします」
 「道が入り組んでて見つけにくかったでしょ、うちのビル。今、紅茶入れるからちょっと待ってて」
 中目黒の駅から徒歩10分、オフィスビルの一室を使った小さな会社。今話している女性―ヒロさんに出迎えられ、部屋の中央に置かれた横長のテーブルに座っている。くっきりした目鼻立ち、後頭部で束ね上げられた薄茶色の髪、白のシャツブラウスに薄手のニット。凛とした女性って、こういうヒトのことを言うんだろう。

 「お待たせ。さてと、なんの話から始めようかな」
 「あの、先にこちら…」
 「あ、うん、履歴書ね、ありがとう。それからこれは…へぇ、わざわざサンプル記事まで書いてきてくれたんだ。それでこないだ、うちのオンラインショップで商品注文してくれてたのね。どこで知ったの、うちみたいな小さな会社のこと」
 「たまたまネットで流れてきてショップを見つけたんですけど、素敵なデザインだなと思って、ずっとチェックしてました」
 
 この会社、業態で言えばウェブ制作会社と言って良いのだろうけど、受注でサイトを作る他にも色々と面白いことをやっている。アーティストに取材をして、自社サービスのウェブマガジン兼オンラインショップで取材記事と一緒に作品を販売したり、彼らと購入者をつなぐカフェを開いたり。東京に帰ってきてすぐ、求人が出ているのを見つけた。ウェブデザインなんて出来っこないんだけど、そういった、メディア・コミュニティ運営を中心に担うスタッフを雇いたいということだったから、出してみた。
 ヒロさんは履歴書とサンプル原稿を交互に眺めながら頭を掻いている。待っている間、ミルクティーと一緒に出されたバウムクーヘンを一口頬張る。甘さ控えめさっぱり。木目がはっきりとした無垢の机の上なものだから、なんだか切り株の年輪に見えてきた。

 「どうですか、僕の文章」
 「うーん、そうだね…」
 「なんでもおっしゃってください。足りないところとか、伝わらないところとか」
 「君さ、書くの、好き?」
 「そう、ですね、好きだと思います」
 「思います、か。そっか」
 急に聞かれて、少し答えに躓いた。
 
 「君、書く力はあると思う。よく考えて整理できてる。二次情報だけでなく、ちゃんと自分で使ってみて、良いと思って書いてくれたんだろうなっていうのも、読んでみて分かるよ。だけど、なーんかこう、デスパレートな印象を受けるんだよねぇ」
 言われて、ドキっとした。
 「伝えよう伝えようって、頑張ってくれてるのは分かるんだけど、かえって距離を感じるんだよね。わざわざ遠くに離れて必死に叫んでるような。これだと、読み手は引いちゃうかもよ。君自身もなんか、しんどそう」
 「そうですか…うん、そうですよね、やっぱり。すみません」
 「いやいや、別に謝らなくていいんだよ。うーん、なんていうのかな…」
 少し考えた様子で、僕の顔をじっと見つめ、それから一瞬ふわりと笑った。
 「よし、君の書いた文章とかうちの業務内容の話は、今日はもう無しにするから一回忘れて。そんなの全部、入ってから感覚掴んでけばいいんだから。そういうのじゃなくてね、言葉の奥でくすぶってる、君のことがもっと知りたい」
 「はぁ」
 「君、他にも色々持ってる気がするんだ。うちも小さな会社だから、取材やライティングだけじゃなくて、もっと柔軟に色んなことに挑戦してくれる人と働きたい。君もさ、文章にこだわりたいだけなら出版社とかの選択肢あるわけでしょ。そうじゃなくて、うちみたいな変なウェブ屋を訪ねたのは、何かそれ以上のものを感じてくれたからだと私は期待してるんだけど」
 「それは、確かにそうです」
 「だったらさ、もっと気楽に色んなお話しようよ。紅茶、おかわり入れてくるから」
 「はい、ありがとうございます」
 「あ…バウムクーヘンも、もうひとつ食べる?」
 「え、いいんですか?じゃあお言葉に甘えて」
 「今、ようやくちょっと表情がほぐれたね。食いしん坊さん」
 そう言ったヒロさんは、今度はニカッと笑ってキッチンへ歩いていった。僕はひとり顔を赤らめた。
  
 
  
 「履歴書に書いてたけど、東北で働いてた時のこと教えてほしいな。どうして行くことになったの?」
 「なりゆきですよ。友達に誘われて、大学卒業した後フラフラしてて時間があったからなんとなく行ってみて、片付けやら炊き出しやらしてたらいつの間にかそのまま居着いちゃって」
 「そうなんだ。意外とフットワーク軽いところもあるんだね」
 「ま、その場の勢いというか。滞在したのは海沿い小さな漁村で、あまり知られてないけど、ほんとにいいところなんですよ。人もあったかくて、のどかで、それから魚も美味しくて。でも、地元の人たち、船や工場がやられてほとんどなんにも出来ない状態だから、だんだん活気がなくなっていきました。それで、みんなで何か新しい仕事出来ないかなぁって、相談を始めたんです」
 「新しい仕事、かぁ。なんだかワクワクしてきた。詳しく聞かせて」

 「浜辺にね、綺麗な貝殻が落ちてるんです、光の加減で虹色に光る。それを細かく砕いて万華鏡にするんです。地元の工業高校の男の子とか、水産加工会社のおっちゃんとかが、無事だった機械を引っ張りだしてきてくれて、公民館の一角に作業台を置いて、とりあえずなんか手を動かしてみるかってところから始まって、ちょっとずつ進展していったんですけど」
 「うんうん、それで?」
 「それからね、近くに岬があって、そこから見る夕焼けがすごく素敵なんですよ。水平線にゆっくり日が沈んでいって、暗くなったらそこの灯台が海を照らすんです。津波でお家や港の施設はほとんどやられてしまったけど、岬の灯台は昔からずっと変わらずそこに立っていて、地元のみんなに愛されてます。万華鏡の筒はその灯台をモチーフに」
 「へぇー」
 「万華鏡って、回すと色んな表情を見せるでしょ。僕たち人間に似てると思いません?みんな違った色や呼吸や体温で、一人ひとりが違う花を咲かせて…」
 「うん、うん、そうだね」
 「津波に流されて多くのものを失ってしまったけど、今も昔も変わらないあの灯台に見守られながら、もう一度、一人ひとりの色を、形を見つけていこう、そんな想いを込めて、みんなで万華鏡を作っていきました。これがそのプロジェクトのウェブサイトです。綺麗でしょ。デザイナーさんや写真家さんが何度も現地に通ってくださって作ってくれたんです」
 「うん、すごくいいよ、これ。今まで知らなかったのがくやしいなぁ」
 「今も続いてるんですよ。浜の仕事が出来なくなっちゃったお母さんたちが、ちゃんと収入を得て続けられる仕組みになって」
 「それはすごいな。なんだ、面白いことやってきたんじゃない、君」
 「や、僕自身は別に大したことしてないんですけど…でもほんと、楽しかったです。みんなで笑って泣いて。作ったものを初めて買ってもらえた時なんか大喜びで」
 話しながら、潮の香りとみんなの笑顔が戻ってきた。ヒロさんも僕を見て、目を細めて笑っている。

 「そっかそっか。ほんと、いい経験したね。それで…聞いてもいいかな、どうして東京に帰ってきたの?」 
 「それは…」
 「あ、別にダメって言ってるわけじゃないよ。ただ、そんなに楽しそうな場所を離れてまで帰ってきたのはなんでかなって。何か別のものを求めてる?それだけ充実した日々を送ってた君が、今どうしてそんなに必死で言葉や文章と格闘してるのか、すごく気になる」

 「何かを求めて…それはたぶん、失くし、もの」
 「失くし物」
 
 「さっき話したように間違いなく楽しい日々だったんですけど、でもやっぱり余裕の無い中で走り続けてたのも事実で」
 「まぁ、状況が状況だし、その若さで飛び込んだんだもんね」
 「東京が、ちょっと遠くなりました。それで、なかなかうまくコミュニケーションが取れないまま、大事な人たちとのすれ違いやこすれ合い、その結果のいくつかのさよならがありました」
 「そっか…」
 「言葉で伝えられなかったこと、届かなかったこと…なんでこうなっちゃったのかな、どうすれば良かったのかなって、思い出しては痛くなります。それがうまく処理出来てなくて、それで帰ってきちゃったのかも。結局、僕の方が、色々足りてなかったってだけなんでしょうけどね」
 うまく説明できた気がしなくて、とりあえず笑った。バウムクーヘンをまた一口頬張って、今度はあまり噛まないうちにミルクティーを流し込む。
 「足りなかった、か。そっか」
 僕の言葉を繰り返したヒロさんは、何かを思い返すかのように宙を見つめた。
 
 
 「来週、もう一度お話しよう。今度はオフィスじゃなくて、外で会えるかな。君を連れて行きたいところがある」
 「わかりました」
 「色々話してくれてありがとね。場所と時間、後でメールする」
 
 
 オフィスはビルの5階なのに、ヒロさんはエレベーターで下まで一緒に降りてきてくれた。午後6時、見あげればまだ青白さの残る春の夕空。ずいぶん日が長くなった。
 「今日はありがとうございました」
 「こちらこそ。じゃ、またね」
 「あ、来週までに何かしておくべきことありますか。訪問するところのウェブサイトなどあれば事前に」
 人差し指で口を止められる。その右手がそのまま僕の左頬にふれ、ポンポンと軽くたたき、
 「次に私と会う時にはちょっとでもその顔やわらかくしておくこと」
 呆れたように苦笑いしながら言う。
 「準備なんか要らないから、その時、その場で感じてほしい。今の君は、あんまり考えすぎない方がいいと思うんだ」

アパートメント 第三話―4人の音

 「いやぁ…食ったな」
 「ほんと、もうお腹いっぱい。おいしかった」
 「おかげで楽しい時間になったわ。ありがとう」
 「こちらこそ楽しかったです。急に思いつきで持ち込んじゃって、すみません」
 
 薄い藍色の布団がかぶさった電気ごたつで温まる8本の足。今夜は少し寒い。机の上には大皿小皿、お椀にお鉢。中身はもう4人の胃袋におさまった後。
 かおりさんの管理人室は1階の一番奥にある。 通常の部屋より1室分広くなっていて、僕らはその居間にお邪魔している。 かおりさんの寝室はふすまで仕切られた隣の部屋。一緒にいるのは、ヤマザキさんとマリさん。ヤマザキさんは写真を撮っている。マリさんは絵を描いている。それが2人のいわゆる専業のお仕事なのかとか、フルネームはどんな漢字を書くのかとかは知らない。会うのは今日が初めて。それより先に、2人の作品をアパートメントのサイトで観た。
 つくったおかずをおすそ分けしようと管理人室に寄ったところ、せっかくだから誰か誘って一緒に食べましょうよと、かおりさんが他の住人に呼びかけて、たまたまつかまったのがこの2人。帰ってすでに料理に取りかかっていたマリさんがサラダを持ち寄り、かおりさんがその場で手早くオニオンスープをつくり、帰宅途中に連絡がついたヤマザキさんは近くのスーパーでビールとつまみをガサッと買ってきて、気づけば4人でこんなに食べられるかなという量になっていたのだけど、これが意外とすんなりたいらげてしまった。

 「メシだけでも大満足だが、せっかく買ってきたしつまみでも開けて、もう少し飲むか」
 ヤマザキさんが近所のスーパーの袋から、半額シールの貼られたタコわさパックやら枝豆パックやら、チーズ鱈やら堅あげポテトやらを取り出していく。
 「いいですね。じゃあ一回テーブル片付けましょう。洗い物しますよ」
 「そんな、気を遣わなくて良いわよ。料理まで持ってきてくれたのに」
 「や、なんか僕、洗い物好きなんですよね」
 
 食器を重ねて、手分けしてキッチンの流し台へ。よく住人が遊びに来るからか、棚には食器がざっと5,6人分揃っている。窓際には小さなサボテン。オレンジ色のスポンジに椰子の実洗剤をかけて何回か握り、泡立てる。
 誰かと一緒の食卓では、洗い物まで楽しいものに変化する。人数が増えた分だけかかる時間は増すけれど、そこで奏でられる音は毎回違っていて、一人の時には出逢えない。束ねたフォークがカチャカチャ言う音、シャーッと流れる蛇口の水、水切りラックにトトンとお皿を重ねる音。それらの合間に挿し込まれてくる少し遠くの会話を、聞くともなしに耳に入れるのが好き。手元の作業の進度、キッチンとリビングの距離、話題の盛り上がり具合、一人ひとりの声の大小、使った食器の材質、蛇口ヘッドの形状、そうしたいくつかの要素の組み合わせとタイミングで、届いてくる言葉が決まるのだけど、会話の全部は聞こえないし、聞こうとしない方が楽しい。みんなと一緒にいるんだなという実感と、自分なんかいなくても世の中は平気のへっちゃらだなという感覚が、両方一緒にやってきて、それはとてもいい感じ。 

 「おーい青年、そんなの後でいいから、お前も早くこっち来て飲め」

 食器を全部洗い終えて、ふきんで調理台を拭いているところ、ヤマザキさんからお呼びがかかった。洗い物の水でひんやりした手を、足と一緒にこたつ布団に突っ込んで座る。見るとすでにビールのロング缶の3本目が空いていた。かおりさんとマリさんはほんの少ししかお酒を飲まないようで、必然、このワカモノがお相伴にあずかることに。
 あ、まずいなぁ、この流れ。お酒、好きなんだけど強くはないから、あんまりハイペースで飲むとよくない。まぁとりあえず一杯、とヤマザキさん。言われるままに飲む。おぉ、いい飲みっぷりだな。あーあ、そんなこと言われちゃって、これ、どんどんいくパターンだ。今日みたいになまじ楽しい席だと、自分、調子乗っちゃうからよくない。よしよしいいぞ、もう一杯いけ。いやいや、やっぱり初対面ですし、あんまりハメ外しすぎるのも、なんかほら。
 
 
 「いやー、なんか楽しいっすね、今日…」
 「おう、そうだろうそうだろう」
 ものの30分でこれである。いや、自分気持ちよくなっちゃってるけど、ここ管理人室ですし、もう夜も遅いし、かおりさんとマリさん笑ってるし。そろそろ引き揚げ時ですよ、お兄さん。
 「ところで!」
 「おう、どうした」
 おいおい、ところで!じゃないよ。お前はいったい何を話し始めるつもりだ。酔うとすぐ芝居がかった動きを始めるからなぁもう。
 「ヤマザキさんの写真観ましたけど、僕、すごい好きです」
 「えっらい急に褒めてくるなー、お前」
 おっしゃる通り。気持ちが高まっちゃうと自分の好き勝手に話題を切り出すもんだから、不可ない。
 「僕、すごく思考が五月蝿いタイプで、アート作品観る時も色んなことゴチャゴチャ考えちゃってダメなんですけど、ヤマザキさんのあの、モノクロームの写真、目にした時にすうっと言葉が消えて静かになって、なんていうか、すごくいい時間でした」
 「思考が五月蝿い、か。確かに、こないだウェブの文章読んだが、ずいぶん小難しいこと考えてるやつだなと思ってたぞ」
 「あー、あれはほんとその、お恥ずかしい。思考ダダ漏れみたいな」
 「いや、あれはあれで面白いからそのまま続けろ」
 「えー、そんなぁ。とにかくそう、街とか人の、日常の断片を届けてくれるような作品が好きで。なんだか落ち着くんですよね。逆にこう、あんまり壮大過ぎる大河ドラマみたいなの、難しいです、ついてくのが。主人公が革命とか動乱の最中を駆け抜けるわけですけど、あぁこれ俺だったら絶対途中で撃たれて死んでるわーとか考えちゃって、映画館で周りのお客さんが感動してても、僕はちっとも泣けないわけですよ、感情移入できなくて。『ああ、無情』ってか、『俺、非情』みたいな」
 我ながら何を口走っているのか、本当に始末に負えない。かおりさん、すげー笑ってるし。

 「なんだお前、最初ずいぶんおとなしいやつだと思ったが、けっこうしゃべれるじゃないか」
 「ね、ほんとに。私も今日でずいぶん印象変わったわ」
 「いや、ほんとすみません。飲み過ぎると調子に乗るから…」
 「人なつっこくて、私はいいと思うけどな。普段からもうちょっと自分のこと出してきなよ」
 「そうですかねぇ…」

 こういうことは、よく言われる。この歳になって未だに、出したり閉じたりの調整が難しくて、ついつい二の足を踏んでしまう。読み合いなんて意味がない、人と繋がっていくには自分を開いてくしかないとは、経験としてももう分かっているのだけど。
 
 ただひとつ確かなことは、今日のこの場がとても楽しくて、このアパートメントで出会ったこの3人のこと、好きになっていっているなということ。そう思えるのならちょっとは気を抜いて、この夜の空気に委ねてしまっても良いのかもしれない。

アパートメント 第二話―モーニング

「おかえり!」
 扉を開けると、マスターは決まって僕をおかえりで迎える。
 夢も見ずに10時まで寝続けて、目覚めてもまだ頭に蜘蛛の巣がかかったまま。冷蔵庫を開ければ中身は空っぽ。どうしようかな、コンビニでパンでも買うかと考えたとき、ふとマスターの出すモーニング―あっさりふんわりのバタートースト、サラダとバナナ、それから深煎りのブレンドが思い出され、そのまま電車を2本乗り継ぎ、50分かけて東京の東側へ。お店に着いたのは11時。ずいぶん遅い、モーニング。

 「こんなに早くよく来てくれたね。引越しなんかで疲れてるでしょ。ゆっくりしてってよ」
 「今朝起きたら、なんだか急に来たくなっちゃって。身体はもう十分休まったんですけど、お腹ペコペコです」
 「すぐ作るからちょっと待っててね」

 銀色のドリップポットの細い首から注がれるお湯が、珈琲豆を躍らせる。フィルタを越えて、一滴一滴溜まっていく様子を見つめるのは、いつになったって飽きない。それが自分のために注がれたものだと思うと、ますます嬉しい。だけど一番好きなのは、マスターが洗い終わったカップを布巾で拭いていくのを眺めている時。みんな、もといた場所へとちゃんと戻ってく。
 
 国道沿いに位置するお店の表面は、一面大きなガラス窓になっていて、店内には白い光が差し込んでくる。お昼前後になると、テーブル席に地元のデザイナーさんやライターさんがちらほらとやって来て、食事のついでにテーブル席でそのまま仕事をしていく。つられて僕もそっちへ移動し、ノートパソコンを開いてお店の無線に繋ぐ。ご挨拶に行かなきゃならない人たちにメールを送って、それから、気になっていたところいくつかへ、求人の問い合わせやら面接の申し込みをした。いつまでものんびりしてられないもんなぁ。借りたものは返さなくちゃなんないし、これまでいただいた時間に見合うぐらいは、そろそろ社会に還元してかなきゃ。

 「相変わらずがんばるね」
 そう言って差し出されたのは、ここの名物のレアチーズ。黒地のお皿に、真っ白こんもりドーム型。贅沢にかかったクランベリーソース。
 「これ、サービス」
 「わぁ、ありがとうございます!いただきます」
 フォークで側面をくずして口に運ぶ。
 「はぁ、美味しい…」
 カウンターに戻ったマスター、こっち見て微笑んでる。

 3時になって、お店を出た。近くのリサイクルショップで自転車を買って、そのままそれに乗って帰ることにした。変速ギアも何もない、8,800円のママチャリ。隅田川を渡り、浅草を過ぎて上野まで。駅の入口を見やると、靴磨きのおっちゃんが変わらずそこに座っていた。
 冬の日、先輩の結婚式に出席する朝、一度だけ磨いてもらったことがある。おっちゃんが僕の革靴にブラシをかけて、クリームを塗っている間、ぼんやりと街を眺めていた。両のてのひらで貝をつくって耳に当てて、ざわめきを反響させる。海より街の音が好き。
 「にいちゃん、何やってんだ?」
 右足終えて、次、左足だと僕を見上げたおっちゃんに、訝しげな顔をされて少し赤面したのをよく覚えている。

 不忍池をぐるりと一周し、裏門から大学の構内へ。
結局一度も入ることの無かった講堂を横切り、銀杏並木をくぐって正門を出た。少し引き返して春日通りに入り、そのままずーっと坂道を、西へ北へと登っていく。
 
 帰りに近所のスーパーに寄って食材を買う。野菜売り場はもうすっかり春の顔ぶれ。新じゃがに新たまねぎ、春キャベツに菜の花、それからアスパラガス。
 家に着いたのは午後5時頃。スーパーの買い物袋をキッチンのテーブルに置いて、コップ一杯の水道水で喉を潤す。お米を研いで炊飯器にかけてから、新じゃがを洗って皮を剥く。油でしばらく素揚げしたあと、鍋に移して煮込み始める。コンロがひとつ空いたので、菜の花をさっと茹で上げ、水で冷やしてだし汁に浸す。煮汁がじゃがいもに染み渡ったところでおろししょうがを入れ、弱火でじっくりコトコトと。あとは、アスパラベーコンでも作って食べようか。その前に、おかずをあと1,2品作り置きしておけば明日以降が楽だな。それから…
 そこでハッとして、手を止めた。明日の予定、時間の節約、今の自分のどこにそんなことを気にする理由があるというのだろう。冷蔵・冷凍して、毎食ちょっとずつ小分けにして食べる、洗い物や調理の回数は極力減らす、同じメニューが続いてもお腹が膨れればそれで良い、そんな食生活をする必要がどこにあるというのだろう。

 「相変わらずがんばるね」
 マスターがそう声かけたときの僕、どんな顔してパソコンのキーを叩いていたのかな。間違いなくしかめっ面。思い返すと滑稽で、少し笑った。

 流し台を離れて、冷蔵庫にもたれかかる。ほんの少し開きっぱなしだった扉をお尻で閉める。頭蓋骨越しに響くブーンといううなり声を聞きながら見上げる、天井の蛍光灯。そのまま視覚と聴覚以外忘れてゆきそうなところで、鍋からキッチンに漂うしょうがの香りに引き戻された。コンロの火を止めて、赤茶色に照った新じゃがをひとつ、菜箸でつまんで口に入れる。

 「おいしい」

まだほのかに湯気が立っている鍋に蓋をして、タッパーと一緒に抱えて玄関へ。

アパートメント 第一話―春風

 小さいころは、春と言えば4月のことで、桜も4月になれば勝手に咲くものだと思ってた。ランドセルを背負って学校に行くのは4月からだし、月めくりカレンダーに桜の絵が載るのだって4月だったもの。全国一律の暦よりも、季節のバトンはもっとゆるやかになめらかに手渡されてゆくこと、桜の花は3月から5月にかけて、日本列島の南から北まで波打つように目醒めては消えてゆくのだということを、肌で理解したのは案外最近のことかもしれない。
 四半世紀の3分の2は、半径1キロの世界が全てだった。各駅電車と坂道の通学路、グラウンドの砂埃に空色のカーテン、踊り場のひそひそ話、教科書の落書き。4月の春の重大事は、掲示板に貼り出されるクラス割り。桜は単なる背景で、いつ花開いたかなんてどうでもよかった。
 上京してからようやく、街を歩くということを覚えた。代々木公園、外堀通り、目黒川に隅田川、桜の季節に自転車で風を感じるのが好きだった。東京という街の営み、そこでの季節のサイクルに少しずつ呼吸が合ってきて、いとおしさが増してきたところでこの街を出ることになった。東北道を上る深夜バスや、太平洋を渡る飛行機に運ばれて、北へ東へと地図が拡がっていく。前の年とは違う土地でむかえる4月。そこでは桜は遅いのだと知った。待ってるあいだ、ふと手のひらを覗き込めば、電子の海を流れる無数の言葉と写真。時差も緯度差もなんのその、南の都では一足先に満開の宴。あれ、春ってどこだっけ。
 目まぐるしく変わる景色、前後運動を繰り返す時計の針に翻弄され、杭を立てる場所を見失う。途方に暮れて立ち尽くしている僕を、誰かが遠くから呼んでいる。そこで目が覚めた。ずいぶん寝たらしい。もう9時だ。あの声は誰だったのだろう。天井を見上げながら考えたけれど、どうにも思い出せない。
 今日は4月3日。このアパートメントに入居して1週間が経つ。白いレンガ造りの壁に赤い屋根、エンジ色の木製扉。玄関横、高さ5メートルほどの樫の木が寄り添うように立っている。常緑樹はホッとする。ときおり黒猫が庭にやってくるけど、まだなついてはくれない。犬には好かれるんだけどなぁ。4階建てで部屋数は20ぐらい。どれも同じ1Kで、家賃も安く、基本的にはごくごく普通のアパートメント。洗面所で顔を洗い、服を着替えて3階の自室を出る。階段を降り、玄関口に差し掛かったところで声をかけられた。

 「あら、お出かけ?」
 「ええ、ちょっとその辺を散歩に。今日は天気が良いので」  
 「そうね、気持ちのいい青空」
 「管理人さんも、お出かけですか」
 「かおり、でいいわよ。わたしはお庭の掃除と水やりに」
 「じゃあ、かおりさん。お掃除、ご一緒してもいいですか。好きなんです」
 「ありがとう。助かるわ」

 かおりさんは、ここの管理人さん。黒くてしっとりしたショートヘアに、細く締まった身体。昼下がりのティータイムの温度で話す。マンションやアパートの管理人さんって、もっと年配の方のイメージだったけど。
 このアパートメントにはひとつだけ変わったところがあって、自前のウェブサイトを持っている。空き部屋情報を載せる不動産サイトというわけではなくて、その時々の入居者が、文章や絵とか写真—要するに何かしら自分の表現物を掲載することが出来るスペースになっている。ウェブ上の入居者のアカウントは、別に本名や部屋番号と紐付けられているわけでもなく、それぞれが別々の日々を営みながら、ときおり気ままにその断片を開示している。これの発案者もかおりさんらしい。このサイトを偶然見つけて、問い合わせてみたら、ちょうど部屋も空いているということだったので、東京に帰ってきて数日で入居した。

 「どうかしら、新生活にはもう慣れた?」
 「大丈夫です。だいたい落ち着いてきました」

 花に水をやりながら横目でたずねるかおりさんに、掃き掃除しながら背中で返事をする。赤いジョウロからチョロチョロ流れる水や、竹ぼうきが石畳を引っ掻く音にかき消されないよう、心持ち声を張る。変にうわずったりしてないだろうか。
 新生活、と言ったって、もはやたいした苦労も無い。
荷物になるものって本と服ぐらいしかないし、それでも段ボール4箱ぐらい。もともとインテリアに凝る趣味もお金もないし、調理器具や食器も最低限。色んな人からの贈り物で、湯呑みやマグカップやグラスの類だけはやたらと数が多い。それらを全部並べて眺めるのが好きだ。今日の夕方、大学の同級生からお古の冷蔵庫を受け取れば、必要なものは全部揃うはず。彼は結婚して静岡へ。奥さんの実家で二世帯生活らしい。「お茶っ葉送るよ」だってさ。
 まだ若いからだと言われればそれまでだけど、衣食住なんて、いつどこへ行ったって別にどうとでもなる。欠けてるのはそう、もっと別のところ。

 「お掃除手伝ってくれてありがとう。よかったら今度管理人室に遊びに来て。まだ夜が少し肌寒いでしょ。うち、こたつ出しっぱなしなのよ」
 「あ、行きたいです。でも気持ちよくってそのままこたつで寝ちゃうかも」
 「いいのよ別に、眠ったって。ゆっくりしてってちょうだい」
 「じゃあ、お言葉に甘えて、今度ぜひ」
 「楽しみにしてるわ。色んなお話聞かせてね」

 かおりさんに箒を返して散歩に出た。住宅街を抜けた先にあるらしい、高台の公園を目指す。細路地を何本か曲がり、車道沿い、三分葉桜の並木道を歩きながら考える。東京に戻ってきた。それで、これからどうしよう。そもそも、どうして帰ってきたんだっけ。春はどこだ、桜はいつだと分かりやすい季節の節目を探し求める一方で、わが身の帰属先すら持てないまま、フラフラと年度を跨いでいる。仕事はどうする。あまりダラダラとはしていられないが、惰性で動けばろくなことにならない。そうこう考えているうちに、道は公園へと続く登り坂へと差し掛かった。やっぱりもう帰ろうかなと思いつつも足を進め、およそ5分ほどで坂を登り切る。
 瞬間、強風が花びらを散らしながら身体の内側を吹き抜ける。心臓と横隔膜がギュッと縮み上がり、思わず両の腕で自分を抱きかかえて身を捩らせる。風はなかなか止まない。4秒、5秒。ようやくおさまり、伏せ閉じた目をそっと開けば、眼下に住宅街が広がっていた。さっきの強風が散らした桜の花びらがまだわずかに下り坂の中空を漂っていて、視線をそのまま遠くへ移せば、穏やかに笑う山々。

あぁ、春だ。帰ってきたんだ、東京に。たったそれだけのことなのに、なぜだかホッとして、泣きたくなる。

新しい季節、新しい暮らし。大丈夫、きっとうまくいく。

問題

キャンパス近くのカフェで槇さんと久しぶりに会った。槇さんは不思議な人だ。年齢は三十代半ばぐらいに見えるけど、実際のところはよくわからない。彼といつどこでどうやって知り合ったかも、よく覚えていない。いつの間にか、年に数回会って話すようになった。

 「久しぶりだね。最近どうだい」
 「充実しています。だんだん慣れてもきたし、自分の関心の方向性ぐらいは、見えてきました」
 「そりゃ何よりだ」
 「でも…友人連中が目標に向かってひた走っている様子を見ると、やっぱり焦ったり嫉妬したりします」
 「君だって、毎日のんびりしてるわけじゃあるまい」
 「それはそうですが、彼らに比べて自分は、『自立』の二文字からずいぶん遠い位置にとどまっているように思うのです」
 「それは、経済的にってことかい」
 「それも大きいですが…まだ、自分の役割が見えません」
 「役割」
 「役割が見えないから、政治や社会の課題に対して目標設定が出来ないのです。それで相変わらず、身近な街や人のうごめきばかり気になっています」
 「それに、何か問題でも?」

 そう返されて、僕は黙ってしまった。目線を下に落として、コーヒーカップに手をやる。僕が黙っていても、彼は特に気にした様子もなく、窓の外を眺めている。そう…これは「問題」ではない。それはわかっている。

 「自分が他人の悩みを聞く側になると、調子よく『焦って他人と比べることないよ』なんて言う癖に、自分のことになるとすぐ他人と比べてしまう。誰かの真摯な相談を、そういう自分の不安を覆い隠す道具のように使っているように思える時もあります。下劣です」
 「今日はまたずいぶんと自分を卑下するね」
 「でも、『自分は下劣だ』と卑下することで赦された気になって、そこから進もうとしないのはもっと下劣です」
 「自覚できているなら、やることはひとつだろう」
 「さっさと社会に出て働けば、もう少しまともな根性になりますかね」
 槇さんは答えなかった。浅はかなことを言ったな、と最後の一言を反省した。
 
 「そろそろ行こうか」
 槇さんはそう言って席を立った。カップにわずかばかり残っていたコーヒーを口に入れて、僕も後に続く。気づけばもう六時前、外はすっかり暗くなっていた。 
 「君、素直でいい奴だが、少し危なっかしい」
 駅までの帰り道、前を向いたままで槇さんはそう呟いた。
 「生煮えの状態でなんでも素直にさらけ出すもんじゃないよ。色んな連中がいるからね。あらゆるものから、うまく距離を取るんだ」
 「槇さんとも、ですか」
 「僕に対してもそうだし、自分自身に対しても。自己分析はほどほどにしておくことだ。今日みたいなのは特にね。僕らは玉ねぎの芯を探すために生きているわけじゃない」
 改札間際で彼はそう言って、駅に入っていった。
 
 「方向性」と、自分で最初に言った。道が見えているのなら、ゴールがあろうとなかろうと、ここから歩き出すことになんらの支障もない。だからやっぱり、これは「問題」でもなんでもない。確かに生煮えだったな、とまた反省した。