アパートメント 第六話―熱

地図を見ながら辿り着いた小さなダンスホール。そこでかおりさんが踊っていた。

 「週末、四ツ谷で踊るのよ。よかったら観に来てね」
 そう言ってかおりさんが僕にチケットを差し出したのは、雨の渋谷の翌朝のこと。どこかへ行く当ても誰かと会う約束も持ちあわせていなかった僕に、行かない理由はなかった。

  その日の踊りがどんなもので、それがどんな風に進んでいったかあまり覚えていない。言葉と思考の網が捉えたものはほんの僅かで、部屋に帰った今も身体中を巡る熱だけが、今日の確かさを伝えている。


  
 照明の落ちたホール。客席と舞台の境界も分からない暗闇。かおりさんはいつの間にかそこに存在していて、踊りはもうそこで「続き」として進んでいた。記憶を辿っても「始まり」は見つからない。 
 
 灯された薄暗いライトの下、かおりさんのしなやかな手足と黒いドレスの襞が浮かび上がっては消える。

 ドレスが空気を揺らす音、足が床を打ち、こする音、時折合わさるピアノの音だけがホールに響く。

 かおりさんの視線はホールの中空を見据えていて、僕たち観客の視線と交わることはない。彼女は長い時間をひとりで踊り続けた。観ている僕たちも等しくひとりだった。
 
 
 
 
 情景としてわずかに思い出せるのはその程度で、後は熱だけが事実としてあった。美しさ、儚さ、寂しさ、切なさ…そうしたあらゆる指示語を振り払い、熱を持った動きだけがそこにあった。

 どれだけ言葉を尽くしても、現実はいつも檻をすり抜け、その先をゆく。どれだけ呼吸と体温を近くに感じようと、二人の人間が同じ場所を占めることはない。一度その手を離れたものを、再び同じ状態で取り戻すことはできない。ひとりの人間に残されるのは、連続した不可逆の時間をその身で泳ぎ続けることだけ。かおりさんの踊りはそれを知っていた。