文章の中に混ざった全角英数字を見つけ出して駆逐することにだけ、僕の「見る」力は特化していて、他のことにはほとんど役に立たない。
家で普通に過ごしているだけなのに、肩だの足だのをよくモノにぶつけて怪我をする。1日平均3,4回は何かにぶつかっているのではないか。
視力はめっぽう悪いのだが、常時メガネかコンタクトをつけて過ごしてるので、日常生活でモノを見るための「(矯正)視力」に致命的な問題があるわけではない。そうではなくて、いま、この状況で「何を」見るべきか、注意の向け方・振り分け方に問題がある。
不注意の問題だけならまだ良い(良いのか?)のだが、それに加えて僕は、他人の顔とか表情とか見た目とかへの関心が薄いようで、新たにお会いした人の顔と名前を覚えて一致させるのに難儀するどころか、何度も会っている友人でさえ、髪型や帽子やメガネやマスクといったもので「一部」に変化が生じると、手を振られてもその人だと確信が持てず「キョトン」としてリアクションを取れなかったり、相手の目や顔を数秒見たまま固まってしまったりする(そして確信が持てないとその場をそそくさと立ち去ってしまう)始末である。
彼女が髪を切っても全然気づけずに機嫌を損ねてしまうことを繰り返した結果、相手が「髪を切りに行く」と知ったらその予定を自分のGoogleカレンダーに入れて、彼女が帰ってきたらすぐ「髪切ったね」と発声できるように対策を施したという友人のエピソードを聞いて、それはとても賢いなと思ったし、僕もカレンダーに入れたことはないが、同じような失態を何度も犯しているので気持ちはよくわかる(最近では開き直って、ツマが美容室から帰ってきたら、わざと大げさに「髪切ったね!!!(ドヤ」と言う奇行・蛮行に走っている)。
本当に、2つも目がついているというのに、俺はいったい何を見ているのか。あと、住所の番地とか郵便番号とかで全角英数字の入力しか受け付けない設定にしてあるウェブフォームは、一体何を考えているのか。
ここまで書いた上で言うと、「こいつ大丈夫か」と不安に思われそうではあるが、気にせず続けると、「見ること(に関係する認知機能)」が色々とポンコツな私であるが、人の話をきくこと、つまりインタビューとかダイアローグといった行為を、一応、商売道具の一つとして評価されたり活かしたりできるぐらいには、まあまあそこそこの年月、続けてこられていたりするんですよ、これが、なんか。
先述の通り、視力そのものの問題ではないので、「五感の一部に制限があるゆえに、他の感覚が鋭敏になる」みたいなカッコいいこともない。味覚聴覚触覚嗅覚、いたって平凡、どちらかというと鈍いものもある。
じゃあなんで成り立っているのか。これを書きながら考えた。逆説的だが、「見ること」、より正確には「自分で見ること」「自分が見たもの」を、あまり信頼しないようにしているからかもしれない。
誰かにインタビューをして、それを物語の形にして、どこかの媒体に掲載して世に出すまでのプロセスには、カメラマン、編集者、校正者、デザイナーetc.たくさんの人の「目」が入る。もちろん、インタビュアーの自分もその一員であるから、さすがに仕事の場面では何も見ずボーッと過ごしているわけではないが、それでも、自分ひとりの「拘り」よりも、異なる技術や特性を持つ人たちが色んな角度から見て意見して議論して推敲した結果の方が、ほとんどの場合は良くなるのだ。
いや、それももちろん重要なことなのだけど、うーん、そういうテクニカルな話をしたいわけじゃない気がするな。
僕はインタビュー(inter-view)の場において、話し手(インタビュイー)の視点を借りて/重ねて、世界を「見て」いるのだと思う。たぶん、そう。
相手と目を合わせたり、その人の表情や身振り手振りに注目することももちろんあるが、インタビュー時間の8割ぐらいは、その人の方を「見て」いない。だいたいは文字通り「明後日の方向」をボーッと見ていて、たまに視点が地面とか空とかコーヒーカップとかに移ってはまた戻る、みたいな感じ。
その人の話、言葉、こえ、おと…を身体に通しながら、そこからぼんやりと浮かび上がってくる、風景を、「見て」いる。いや、意識して「見る」わけではないから、「見えて」くるという方が自然だろう。たぶん、きっと、そういうことをしている。
24時間・365日の大半を自閉的・自己完結的に過ごしている僕が、ほんの数時間、誰かと一緒に世界を「見る」ことができるのが、インタビューという非日常のセッションの魅力だ。その人に見せてもらった世界のうつくしさを、なるべくそのまま、ご本人にも、他の人にも分かち合いたいと思って、僕は文章を書くのだろう(ただし筆はものすごく重い)。