2021年2月28日に、青山拓央『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』のオンライン読書会をした。この記事は、本書の背景および読書会での対話を私が大幅に再構成したものである。
(おことわり:アカデミックな文脈で人名を使うときには、一般に、「ヘルマン」のように姓の呼び捨てで人を呼ぶのが通常であり、これは日本の名前でも例外ではない。以下で私は「青山」と姓の呼び捨てで青山さんを呼ぶことにする。)
この本を読書会で読む直接の目的は、幸福(happiness)や福利(well-being)が哲学の文脈でどのように論じられているかを広く共有し、それを素材として参加者とともに幸福について考えることだ。直接でない目的もある。近年、ウェルビーイング(well-being)という語が日本でも徐々に浸透してきたが、この語の使われ方が、私がよく知る福利(well-being)という語の使われ方と微妙に違うような気がなんとなくしている。そこで、前者の「ウェルビーイング」に親しみのある参加者とともに後者の「福利」についての本を読み、この感覚について検証したいと考えた。これが、この読書会の裏の目的であり、実を言えばこの読書会のそもそもの発端だった。
なお、哲学者が使う「福利」という概念には、もちろん厳密に言えば人によっていろいろな使い方があるが、ざっくりと「幸福」「幸せ」と同じ意味で使ってそれほど間違いではない。そこで、以下では、より日常的な単語である「幸福」「幸せ」を主に使いたい。
そもそも、幸福について哲学者が何を論じようというのか。幸福の形は人それぞれであって理屈もへったくれもないのではないか。たしかに、学者になりたい人がいる一方でビジネスで稼ぎたい人もいるし、アイドルとして武道館に立ちたい人もいるし、地元で農業をがんばりたい人もいるし、公務員として故郷に尽くしたい人もいる。この意味で、ある人にとって何が幸福なのかは人ごとに異なる。
しかし、次のように考えるのはおかしいだろうか——「ある人が幸福なのは、その人の夢や願望や夢が叶った場合だ。ところで、夢や願望の中身は人ごとに異なる」。もしこれが変な考え方ではないとすると、「幸福の形は人それぞれだ」というのは、半分は正しいが半分は間違っていることになる。つまり、夢や願望の中身は人それぞれだが、ある人にとって何が幸福なのかについては、すべての人にあてはまる説明として「その人の夢や願望の成就」があるというわけだ。
このようにして二つの問題が区別できる。
ある人の幸福に資するアイテムは何か?
1で挙げられたアイテムがその人の幸福に資するといえるのはなぜか?
哲学者は、問題1に答える理論に列挙的理論(enumerative theories)という名前をつけ、問題2に答える理論に説明的理論(explanatory theories)という名前をつけている。もしかすると、列挙的理論については「人それぞれだ」が本当に正しいかもしれない(福利論を専門とする私もそうだと思う)。しかし、説明的理論については、一般的な理論を求める意味が少しはあるように思われる。
また、「幸福とは何か」という漠然とした問いを上のように二つの問いに分解できたという時点で、哲学者が幸福について口を出したことの成果が既にあるかもしれない。つまり、何でもかんでも「人それぞれだ」と高を括るのではなく、どこまでなら理論が役に立ってどこから先が本当に人それぞれなのか、これでわかったのだ。
ただし、列挙的理論と説明的理論という区別が(哲学者のあいだで)広く知られるようになったのは、ごく最近のことだ。哲学の標準的な教科書には、「幸福とは何か」という問いには次の三つの主要な答えがあると書いてある(青山も、これまでの見解という扱いでこの三つの説に触れている)。
快楽説:
ある人が幸福であるのは、その人が快楽を受け取っている場合である。欲求充足説:
ある人が幸福であるのは、その人の望みがかなっている場合である。客観的リスト説:
ある人が幸福であるのは、その人が「客観的にみて善い」状態にある場合である。
この三つの説は、ある人が幸福であるかどうかについて違った答えを出す場合がある。仮に、私(石田柊)には友達がおらず、私はそのことについて精神的苦痛を感じておらず、また私は友達がほしいと一切思っていないとしよう。それでも、あなたはこう言うかもしれない——石田がどう思おうと、友達がいないことは客観的にみて不幸だ(それが不幸でないという石田は間違っている)。もしあなたが正しければ、友達のいない私は、快楽説や欲求充足説に照らせば別に不幸ではないけれども、客観的リスト説に照らせば不幸だといえる。
ただし、この三つの説のうちどれかを選ぼうという考え方は、最近ではあまり評判がよくない。理由はいくつかある。第一に、そもそもこの三つはあくまで大手であって、実力派のインディーズ幸福理論が他にもある。有名なものとして、人生満足説、種規範説、主観客観ハイブリッド説などがある(こうした立場の詳しい説明は省略する)。第二に、列挙的理論と説明的理論との対比を考えるほうが生産的だと考えられ始めている。この対比についてはすでにみた通りだ。
青山は、これに加えて、そもそも我々は三つのうちどれか一つが正しいと考えなくてもよいと主張している。その根拠を大雑把にまとめると次のようになる。
幸福が話題になるほとんどの場合において、三つの理論は同じ答えを出す。
理論どうしが対立するように見える場合でも、よく観察すればそうではないとわかる。たとえば、いまの快楽と(それを我慢して得られる)より長期的な欲求充足とが対立するように見える場合がたしかにある。けれども、本当に問題になっているのは、いまの快楽と将来の快楽の対立、もしくはいまの欲求充足と将来の欲求充足の対立であって、快楽と欲求充足の対立ではない。
我々が幸福追求をしようとして何らかの選択をする場面は多々あるが、そのすべてで一つの幸福理論に従い続けるわけではない。場合によって(選択の重大さによって、もしくはただの気分によって)従う理論を変える。
一つ目と二つ目はともかく、三つ目は(少なくとも通常の哲学的福利論では)それほど注目されてこなかった論点であり興味深い。私の意見を言えば、どことなく「いや、そりゃそうだけども、それを言っちゃおしまいじゃないですか?」という漠然とした違和感がある。
この違和感はどこから来るのかを、読書会のあとずっと考えている。ひとつの仮説として、幸福の理論とはどういうものであってほしいかの出発点の違いが考えられる。一方には、我々の幸福追求が実際にどうなっているかの記述と説明に徹したい人がおり、他方には、我々が幸福追求のやりかたに迷ったときの指針となる規範的要素を求める人がいる。私の勘違いでなければ、青山は前者であり、私はおそらく後者だ。どちらが正しいかはまだ決着がついていないし、違うことをやっているもの同士で共存可能かもしれない。
『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』という表題の問いに真正面から答えているのは第7章だが、これはおそらく別の形而上学の本を読まないときちんと理解できない。それはそれとして、この本では、哲学的福利論の主要な論点がいくつか触れられている。たとえば次のようなものだ。
経験条件:
仮に欲求充足説が正しいとして、ある人が幸福であるためには、その人の欲求が充足されたことを本人が経験しないといけないか、それとも欲求充足を本人が経験できなくてもその人は幸せになったといえるか? (生前の望みが死後に叶った場合を考えてほしい)福利の比較概念と非比較概念:
ある人がどのくらい幸福であるかは、他の人がどのくらい幸福であるかに依存するか? (平等や妬みや相対的貧困について考えてほしい)福利の主観的報告の信憑性:
ある人が「自分は幸せだ」「自分は不幸だ」などと報告するとき、それをどのくらい信用していいのか? 幸福度の自己申告を鵜呑みにするべきでない状況はあるか、またそれはどんな状況か?
読書会での議論もこのような論点を中心になされた。とくに、最後の論点はやはり多くの人が関心をもつ論点であったようだ(実際、私もこの論点への関心が強い一人だ)。一方では、ある人が幸福であるかどうかを他人が推し量ることは、うまくいかない場合が多い。また、そうやって推し量ること自体が悪い行為でありうる(「認識的不正義」がキーワードのひとつになる)。他方で、自分は幸せだと言っている人が事態を誤解していることが明らかな場合——たとえば、殴られているのに「かまってもらえている」と誤解して喜んでいる人——もあるだろうし、どう考えても適応的選好だといえるような選好も実際に生じうる。これはちょっとしたジレンマだ。
もし、世界に人間が一人しかいなかったり、人間が二人以上いるとしてもその幸福の内容がみな同じであれば、理屈の上では、相手の幸福を推し量ることは常に成功するので押し付けは生じない。そういう場合には、自分が感じたとおりに他の人も感じるので、「考えるな、感じろ」が本当に正しい教えなのかもしれない。しかし、実際には世界には人間が二人以上いてその幸福の内容は(少なくともアイテムレベルで)まちまちだ。他人の幸福に介入するときに理屈が必要になるのはこういう事情によるのかもしれない。厳密な検証は今後の課題だ。
ところで、近年の流行語である「ウェルビーイング(well-being)」と哲学者が使う「福利(well-being)」との関係についてはまだよくわからない。おそらく前者は後者に含まれるのだろう。引き続き勉強したい。
書いた人
■石田柊
分析的道徳哲学者。一言でいえば、(1)幸せな人生を送るとはどういうことかと、(2)誰かの幸せが別の誰かの幸せを踏みにじっている場合にどうすればいいかを理論的に研究しています。「わかったつもり」の解消が生きがいです。