ラクな装い、楽しむ装い

装うことを軽視するわけでも厭うわけでもなく、時と場面に応じた装いをそれなりに楽しむ方ではあるのだが、実際のところ、日々の装いはどんどん省エネで変化の少ない方向へと収斂していっている。「衣食住」全般がそうで、色々考えて選んで組み合わせて……という過程を楽しむことよりも、それらにかかる認知的負荷を少なくして、「極力疲れないようにする」ことの方が重要度が高くなってしまったのだと思う。34歳という、そりゃあ年寄りぶるにはまだ早いのだが、しかしもう全く「若者」ではない年齢で、これからも基本的に体力は下り坂であることに加えて、数年前に鬱をやったことと、もともとある発達凸凹がかけ合わさって、気をつけないと仕事はおろか日々の「衣食住」だけでぐったり疲れてしまう身体になってしまった。大学進学を機に上京した頃は、「ほえー東京にはおっしゃれな人がいっぱいいるんだなぁ」と街中の情報量に圧倒され、タイトなジャケットやらスラックスやらを買ってみたり、かと思えばアジアン系のお店でタイパンツやらストールやらを買ってみたり、中古の着物を買って下駄や雪駄でキャンパスを闊歩してみたり、あっちゃこっちゃと迷走しながらも「装う」ことをフレッシュに楽しんでいたのだが、今は昔である。若さよ。

黒、白、青、グレー、ネイビー、カーキ、モスグリーン。チェストを開いて見える衣服の色は、9割5分この中に収まる。妻に勧められたり、服屋に行ったタイミングでたまたまちょっと気分が上がって「新しいわたしデビュー」みたいな感じで、ごくごくたまーに、オレンジとか黄色とか赤とかピンクとか、明るい色のものが加わることはあるが、そのぐらいだ。

夏場は半袖Tシャツ、春秋はロンTにシャツかパーカーを羽織る、冬はセーター。上記のせまい色幅の中でそれぞれ3-5枚あるものを日替わりで順繰りに着る。基本無地で、柄物はない(せいぜいボーダー)。着ているうちに洗濯したものが乾いてローテが一周する。「引き出しが少ない」とはこのことだ。

仕事柄、スーツを着る機会はほぼゼロで、ネクタイを締めるのは冠婚葬祭ぐらいだが、「ジャケット」というものは気持ちがシャキンとするのでけっこう好きだ。例のよって色彩パターンは狭いのだが、夏物から冬物まで、セットアップを5,6は持っていて、自分が司会やスピーカーを務めるイベントとか、小綺麗なお店でのちょっとした懇親会とかで着ていくのだが、それもここ数年は例の感染症に起因してグッと減った。

物持ちはだいぶ良い方だと思う。服を買いに行くお店は決まっていて、無地で落ち着いた色で、生地がしっっかりしていてそれでいて着心地が良くて疲れにくいものを置いていて、僕の好みをよく知ってくれている店長がちょうどいいものを勧めてくれるのだけど、そこに年に1回か2回行って、シーズンに合わせたものをちょっと買い足す。「シーズン」に合わせてと言いつつ年に1,2回なので、その年には新しい服が増えないシーズンもあるわけだが、何年も着れるものも少なくないから問題ない。というのは僕の主観的経験であって、ほつれたりよれたりしてきていることにそもそも気づきにくく、買い替え時の判断が遅いために、見かねて妻がちょちょっとZOZOやらフェリシモやらで買い足してくれることもあり、それらも合わせてちょくちょく入れ替えが発生しながら全体のローテがなんとなく回っているというのが実情だろう。

冒頭述べた通り、「装うこと」それ自体は、別に嫌ではなくて、むしろ楽しめる方だと思う。特に、自分になんらかの社会的な「役割」が課されていて、他者の期待に応えて振る舞うー服装だけでなく、役割もセットで「装う」場面は、けっこうノリノリでやれるものなのだ(終わったらグッタリ疲れるのだけど)。これまでの色んな仕事の中で、採用やら広報用の宣材撮影だったり、自分がパブリックな役割(司会、モデレーター、プレゼンター、ファシリテーター)を担うイベントやら取材だったりで、プロのカメラマンさんに写真を撮ってもらう機会に恵まれてきた。そういうときは、自分の手持ちのなかで小綺麗で、気に入っており、気持ちがシャンとする、それでいて自然体でいられる服を着て臨む。後で見返しても、(自分なりに)いい表情、いい装いをしてるなぁと思えるぐらいには、けっこう楽しそうに撮られているんだよな。

結局「装うこと」というのは、見る者見られる者の関係があって成り立つものなので、屋外イベントの絶対数が減り、子どもの送り迎えぐらいしか日常生活での外出機会がないなかでは、自分の体調や特性も相まって、どんどん幅が狭くなっていくことは無理もないことだと思う。それはそれで楽なので良いのだけど、引き出しが少ないなりに、たまにはシャキっとする場にシャキッとする格好で出かける「出来事」がほしいなぁと思わないでもない。