風俗街の入り口にある、スシローの前で男性が手を上げた。トヨタのコンフォートをゆっくり減速させ、ウィンカーを出して、左側に車体を寄せる。男性の前に、左側後方のドアがひらくように停車する。ドアを開ける。男が入ってくる。その瞬間に、その人間がもっている独特の存在感が車内をみたす。何者だろうか。ドアをあけたときにいつも考える。背後に座った男性はどんな人間だろうか、と想像する。風俗の客か、経営者か、そこで働く人か。たたずまいからして、経営者だと感じた。
「ご乗車ありがとうございます。どちらまで?」
「麻布まで」
「かしこまりました」
「ちょっと急いでくれる?」
「はい」
国道15号線、第一京浜で六郷橋を渡る。川崎と東京都大田区をつなぐ橋は、大師橋、六郷橋、多摩川大橋、ガス橋、丸子橋がある。なかでも六郷橋は第一京浜が走っているので交通量が多い。橋の中央部から都内の風景を一瞥する。右手には羽田空港。左手には田園調布。真正面では都内に向かう車両が渋滞している。バスは蒲田に向かっている。僕はその渋滞の車列を縫うように走り込んでいく。警察官が交通違反を見つけるために、どこかで目を光らせている。排気ガスを吹き飛ばす風が吹いている。
顔を見られないで仕事ができる。
誰でもない、どこにでもいる、誰も気にとめない人間になれる。
タクシードライバーになって、匿名の存在になれることの気楽さを生まれてはじめて体験できた。
大きな青アザが右顔面にある、「ユニークフェイス」なタクシードライバー。
『鬼滅の刃』で、鬼と戦う「柱」と呼ばれる剣士たちが、鬼と死闘を繰り広げるなかで、最大限以上の能力を絞り出すとき、顔や身体に痣が浮き上がる。僕にはその痣が、顔の半分に生まれつきある、と説明したらよいだろうか。僕と同じような顔のドライバーに会ったことがない。おそらく、日本でたったひとりのタクシードライバーである。
タクシードライバーになるとき、電話で人材紹介会社の担当者からヒアリングを受けた。自己破産の経験があるのか、最近、交通事故をしたり、免許停止の処分を受けたことがあるか、と。特にないです、と回答した後に、「七海さん、イレズミを入れてますか?」という質問がきた。「イレズミはありません。でも……」「でも……なんですか。何かあれば遠慮無く言って下さい」「顔にアザがありますね」「ああ、アザですか、シミみたいなものですよね」「かなり大きい」「大丈夫でしょう」「ヒジョウに大きい」「どういうことですか」「電話では説明しにくいので、会ったときに話しますよ」「イレズミじゃないんですよね。……じゃあ、すぐに面接の日程をきめます。明日に電話します」
横浜市横崎区にある老舗タクシー会社「横崎タクシー」を紹介された。人材紹介会社の担当者Kと、会社の正面玄関で待ち合わせをした。前から、ニヤニヤ笑った女性が歩いてくる。「やっと会えましたね。今日は楽しみにしてきましたよ」どうも、と頭を下げた。「顔のアザは、かなり目立ちますね。でも、七海さん、営業マンの経験もあるんでしょ。なんとかなるんじゃないんですか」少し不安げな表情である。初対面の人間の反応はだいたいこんなものだ。面接に頭を切り替えることにした。
営業マン経験があるので、面接で緊張したことはない。自己紹介と過去の職歴を伝えて面接を終えた。Kさんは「こんなに話が上手な面接に立ち会ったのは初めてです」「どういうことですか」「みんなもっと口下手なんですよ」。この反応もいつものことだ。初対面の印象とのギャップを面白がられる。
すぐに、その会社から内定の連絡をもらい、タクシードライバーとして働くことが決まった。僕は53歳だった。
タクシードライバーの平均年齢は58歳。僕はその平均よりも少し若い。入社して気づいたのは、60代、70代のドライバーが多い、という現実だった。タクシー業界は、高齢化と人手不足の業界になっていたのだ。
会社の費用で二種免許を取得するために自動車学校に通う。二種免許は一発で合格。次は神奈川県のタクシーセンターで地理試験を受けた。県内の地理の基礎知識が問題に出る。1回で合格。試験が苦手な人は、何度も落ちてタクシードライバーの道を諦める、と聞いた。
1週間ほどの研修を受けて、すぐにひとりでタクシー営業が始まった。
タクシー会社の営業所は横浜市内にあるが、僕は好んで川崎市を流した。住んでいるシェアハウスが川崎市川崎区にあるので、少しだけれども土地勘がある。そして、川崎市川崎区には東京と横浜にはない、独特の熱気があるからだ。
とくに産業道路で営業するのが好きだった。
産業道路を走行するとき、気をつけなければならないのは大型トラックではない。道が広くトラックが走りやすい産業道路では、大型車両は安全運転ができる。バイクである。バイクは自動車の合間を縫うように移動して、前に向かっていく。そのバイクが原付のように小型だと、運転席から視認できないことがある。とくに、車の左後方にピタリとつけて、自動車と同じ速度で移動されると、運転席からまったく見えない。車線変更をしたときに、バイクを巻き込んで事故を起こすリスクがある。走行速度に注意し、信号で停車したときに、左後方を身を乗り出して確認する。
産業道路は歩行者がほとんどいない道路だ。
大型車両が数多く走る、首都圏の物流の大動脈、それが産業道路である。
タクシードライバーは人が多い地域を流すのが基本だ。手を上げるお客さんを見つけやすいからだ。しかし、僕はその基本通りに仕事をしないようにしている。そこには競争相手のタクシードライバーがひしめき合っているからだ。
運転席に取り付けられた液晶タブレットが鳴る。配車アプリが、近くにお客がいることを表示している。受諾する。お客さんがいる場所をナビが指示する。そこに向かってタクシーを走らせる。
お客さんはタクシーを見つけて手を上げる。名前を確認して乗車していただく。「安全のためシートベルトの着用をお願いします」と声をかける。目的地を聴く。産業道路の周辺のお客さんの行き先の8割は川崎駅だ。アクセルを踏んで発車する。背中にお客さんを感じながら、周囲の安全確認をしながら、いつものように川崎駅へ向かう。
川崎大師、川崎競馬場、風俗街の堀之内を通過して川崎駅へ。料金は1200円円前後だ。途中で信号待ちや渋滞があると、料金は加算される。お客さんによっては、タクシーで移動するルートを決めている。その指示にしたがって走ることもある。いまはスマホのナビアプリの性能が上がっている。習慣で決めたルートよりも、Googleナビのほうが最短距離、最短時間を指示するときもある。ドライバーとしては、お客さんが納得できればどんな道でも走るだけだ。
朝4時に目が覚める。お湯を沸かしてコーヒーを煎れる。パソコンの電源を立ち上げてYahoo!で天気予報を確認する。トーストとコーヒーで簡単に食事を済ませてから、シャワーを浴びる。
自転車で横浜市横崎区のタクシー会社まで走る。約45分。運動不足になりがちなので、この自転車通勤で、運動不足の解消と腰痛の防止をしているつもりだ。
会社の更衣室で、制服に着替える。濃紺の上下。僕はタクシードライバー用の「作業服」と呼んでいる。丈夫で色落ちしない生地なので、洗剤なしで洗濯機で水洗いするだけ。会社支給のネクタイを締める。ロッカーの扉には鏡はついていない。身だしなみを気にするタクシードライバーはいない。
運行管理者に声をかけて、この日に乗車する車両の鍵と、ETCカード、そして自動日報を記録するメモリーカードを受け取る。車庫のなかから車両をみつけて、エンジン、ライトの点検を終えて出庫である。そこから先は、自由に仕事ができる。営業エリアであれば、どこを走っても良い。いつ休憩しても構わない。最大20時間の労働時間のなかで、できるだけたくさんのお客さんを乗せて、稼ぐ。長い一日が始まる。
僕が走る営業区域は京浜交通圏。横浜市、川崎市、三浦市、横須賀市の4市で営業できる。港町である。アメリカ軍基地、競輪競馬などのギャンブル、堀之内という風俗街があり、日本中から仕事をもとめて移住する人間がやってくる京浜地区である。
僕はこの京浜地区でユニークフェイスなタクシードライバーとして2年働いた。