以下に掲載するのは、2021年12月5日開催「DO-IT Japan2021一般公開シンポジウム」に私(愼 允翼)が登壇する際に作成した講演原稿である。
同シンポジウムは、中等教育(中学校・高校)でのインクルーシブ教育を実現する上での障壁とその解消をテーマとしたもので、私はその第2部のパネルディスカッション「私たちの「中高のインクルーシブ教育」と今後への期待を語る」に、DO-IT Japanスカラーの一人として登壇した(ファシリテーターはDO-IT Japanディレクターの近藤武夫先生)。
当日のパネルディスカッションは、近藤先生のファシリテーションの下、他のスカラーのお話も交えてクロストーク的に展開されたため、講演原稿通りにお話してはいないことをご了承されたい。
本原稿を作成する際に、これを読んだヘルパーの鈴木悠平さんが「読み物としても面白いので、イベント後、ぜひウェブに残してほしい」と提案をしてくれたため、閒(あわい)のブログに寄稿することにした。
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私が中等教育を語ること自体の「困難」
今回のシンポジウムのテーマは「中等教育におけるインクルーシブ教育」ということですが、私の経験してきた「困難」を踏まえた具体的な問題提起をする前に、私がこのテーマを語ること自体の「困難」を話しておかねばなりません。というのも、中等教育を私が受けていたのは短く見積もっても6年以上前のことになりますから、他のパネリストのお三方に比べて、少なくとも時間的ブランクが圧倒的に大きいと言わざるを得ません。そしてブランクがあるところには、嘘・誇張・勘違いが意識無意識を問わず潜みやすい、この点をまずはっきり言っておきたいと思います。
私がまず触れておきたい「困難」を語ること自体の「困難」とは、およそ二つのフェーズから構成されます。
第一に、「困難」を語るということは「困難」のただなかにある人には決してできない、と私は考えます。たとえば、少し極端な例かもしれませんが、自殺予防の呼びかけの典型的標語「困難を抱え込まないで、話してください」を思い起こしていただければ、わかりやすいでしょう。この標語が含意するのは、「困難」を語るという行為が、その「困難」の対象を自己の内から外に追い出し、距離を取って、まるで他人事のように冷静に観察することだ、ということです。そのような客観視の機能が追い詰められた心に逃げ道をもたらしてくれます。しかし、多くの自殺志願者はこれができません。なぜなら、やはり「困難」を真に語るには、そのただなかに留まるしかないように思われるからです。
第二に、どうにか「困難」の対象から距離をとることができたとしても、全く問題が解決するどころか、事態はより「困難」になる、と私は考えます。距離をとったそのとき発生するのは、時間的・空間的ブランクだからです。そのブランクは「困難」を忘却させ、「困難」の姿をぼやけさせる機能を帯びます。さらに付け加えれば、そのブランクには成功体験という後付けされた、欺瞞的意味解釈が入り込みやすい。そして成功体験は「モデルケース」として社会秩序をつくり、それに適合できる障害者をエンパワーメントする(権力を与える)と同時に、適合できない障害者を抑圧するのです。
ですから、私が「困難」を本当に語ろうとするなら、そのただなかで、語ることのできないなかで、語らなければなりませんが、幸か不幸か私はもう中等教育からずいぶん離れてしまいました。そして忘れているということは、痛みを伴う思い出が私の中にもはやないということになります。したがって、その「困難」は大したことがなかったと言わざるをえません。そして私はモデルケースになりたいと思ったことがなければ、今後そうなる予定もないので、みなさんの人生に役立つお話をすることができません。というよりも、意図的にしません。これが「困難」を語ること自体の「困難」を指摘した理由です。
といっても、DO-ITには高校生のときから計り知れない恩義がありますし、いかなる「困難」も私の進む道を阻害できないし、なによりも「モデルケース」とは違う仕方で、若い障害学生のみなさんをエンパワーメントする(権力を与える)のではなく、エンカレッジする(勇気を与える)語りはあった方がいい。拙いですが、今日はそれをお話する機会にしたい。
高校受験の「困難」とその正統な解釈
以上を踏まえて、「中等教育におけるインクルーシブ教育」にまつわる私の「困難」を語る第一歩は、一切の体験を排除し、客観的事実だけを述べるところから始めたいと思います。
その中でひとつ、みなさんに話してもそれなりに意味のあることと思われるのは、私が高校受験の際にいかにして合理的配慮を獲得したか、という事実です。ここで「事実」と言いますのは、中高の先生方の証言や配慮決定通知書や申請過程の記録など、物的証拠が残っていて、今からでも十分に確認可能だからです。逆にそのとき私がどんな気持ちだったか、そんなことは「事実」ではないことにしてしまいます。
私は千葉県船橋市で小中高および予備校まで、通常学級で過ごしました。学校では教育委員会が派遣する介助員と、お家では放課後の数時間、訪問ヘルパーと一緒でした。その中で出身となる千葉県立船橋高校を受験することになったのです。中学校の定期試験では試験時間の延長と別室での代筆受験(PC持ち込み)をしていましたから、同じ合理的配慮を申請しました。といっても、まだ「合理的配慮」という法的用語も知らなかったですし、そもそも「差別解消法」も準備すらされていなかった時期のお話です。したがって、千葉県の回答は単純明快「いかなる配慮もしない」の一点でした。回答が決まっているのですから、話し合いの余地もありません。しかし、当時の私にとっての第一志望は筑波大学附属高校でしたから、千葉県との交渉は一時ペンディングとすることにしました。それに対し、筑波大学附属高校は筑波大学の障害学生支援の専門スタッフが審査してくださり、申請した全ての項目について、「特別」に配慮が認められました。ここから潮目が変わったと思っています。すなわち、筑波大学の「特別」配慮決定通知書がまるで水戸黄門の印籠とでもいうのでしょうか、千葉県の態度を一転させたのです。結果的に私の学力が足りず、筑波大学附属高校には行けませんでしたが、そのおかげで、公立高校受験の合理的配慮が付随的に獲得され、私は千葉県立船橋高校に合格しました。
「事実」はこれだけです。ですから、話をここで止めても良いのです。しかし、もう少し飛び込んでみます。実は先ほどのお話の中に、「事実」と言い難いものをつい潜ませてしまいました。つまり、水戸黄門の印籠のお話です。当然、この紋所が目に入らぬかと言ったことはありませんし、ははあとなったわけでもないからです。しかし、実際に千葉県の回答は真逆のものとなりました。この意味を考えてみます。
実のところ、千葉県教育委員会の記録にこの「事実」は残っていません。もしかすると、秘密の金庫にでも残っているのかもしれませんが、証言のできることとして、私が合格したとき、千葉県教育委員会は今回の配慮は「特別な措置」であって、一切記録を残さないし、一切その過程を話さないでほしいと言われました。といっても、私はこのお願いを聞こうとは思いませんが。しかし重要なことは、千葉県のこざかしさを批判するために「事実」をスキャンダラスに暴露することではなく、その「事実」をどのように正統な形で解釈し、説明するかだと思うのです。
正統な解釈と説明とは、そのただなかで起こったことを、後の価値観で判断しないということです。私の些細な高校受験の例で言えば、一枚の通知書は「合理的配慮」として何かを変えたのではない、ということに注目することです。その一枚が示すのは、まだ差別解消法もなかった時代、つまり「合理的配慮」が実効性を持たなかった時代、後の言い方でいうところの「合理的配慮」が「特別な措置」として獲得された、ということです。この「特別」を、まるで「一過性の」とか「特権的な」とかそういう風に解釈して、軽く見ないで頂きたい。ましてや、それを道徳的に許せないこととは考えないで頂きたい。「特別」の意味は、「合理的配慮」における「合理性」の始原において、偶然的に法が作られる、その歴史的創造行為ともいうべき何かだからです。そして、障害を持つ学生たちや、その支援者たるみなさんに私が今日お話しできることは、まさにこの歴史的一点に常に注意を向けてほしい、ということなのです。
インクルーシブ教育の実現問題から障害学生の人間論へ
中等教育は一般に社会適合的な大人を育てる準備としての役割を強く持ってしまいます。ブラック校則などと呼ばれるものはまさにその象徴です。内申点は中等教育の象徴的な価値基準ですが、これは日常生活に点数をつけるという極めて不透明なものです。そこでものを言うのは、今までの教育に嚙み合うかどうか、既存の社会に相応しいか、これだけです。ですから、学習障害のある学生は診断書がなければ、「努力の足りない子」「勉強の苦手な子」にされてしまいますし、仮に診断書があっても、「専門の学校に行って」と追放されてしまいます。これを是正するために差別解消法はあります。しかし、差別解消法があっても「困難」が決してなくならないことをみなさんご存知でしょう。なぜなら、そもそも障害者は「インクルージョン」と根本的に相容れない、歴史創造的存在だからです。私たちの「困難」は、障害の医学的特性や社会的法的定義によって決まるのではありません。その「困難」を生きる一人ひとりのかけがえのなさが歴史的に常に新しいこと、これが私たちの「困難」を決定するのです。ですから、「中等教育におけるインクルーシブ教育」を考えることは、私にとって障害の現実的解決を考えることよりも、ずっと広大な問題圏として人間論的に検討すべき問題にならざるを得ません。
話を戻します。既に私の些細な事例から、「合理的」や「インクルーシブ」の外側、すなわち差別解消法が成立している今日でもなお、障害学生一人ひとりの傍にある「困難」としての歴史の始原に注意することの重要性は、指摘しました。問題はどうすればその注意が可能となり、また「困難」から新しい歴史を実現させることができるのか、です。結論から申し上げれば、月並みな言い方で恐縮ですが、「イマジネーションを広く持つこと」です。
私にとって、中等教育も高校受験も、そのただなかでは気づかなかったことですが、振り返ってみれば文字通り通過点にすぎない、どうでもいいことだったのです。それよりも、ただなかの私が願ったのは、一刻も早く周囲の保護から抜け出し、自分の人生を自分の手で生きたい、ということでした。私は小中学校のとき友達ができませんでしたから、一刻も早く「どこか別の場所」に出ていきたかった。そのために筑波大学附属高校を受験したのであって、その大きな夢のほんの些細な実現が一枚の配慮決定通知書だったのです。もしもあの一枚がなく、千葉県の公立高校に行けなかったとしても、私は結局同じことになったのではないかと思うのです。そして、その直観が私を「モデルケース」でなくさせるのです。なぜか。
それは大きな夢ほど成功体験と程遠いからです。成功体験とは短いスパンで人生の目標を実現することであり、この実現するというリアリティが全てです。そして、そのリアリティを後から正当化するのが「モデルケース」のやり口です。それに対して、大きな夢はとても叶いにくいと第三者には思われてしまうもの、人生のただなかにある本人だけが見えているものでなければなりません。そして、「見えている」ということを支えているのはイマジネーションであって、言語化されているわけでもありません。ですから、語ることができないのはもちろん、偶然的で、目の前の人生に都合のいい結果をもたらすわけではありません。しかし、実現を待つ可能性が大きいことによって、言語化できる些末なリアリティは全体の可能性を知ることがなく、損なうことなどできないのです。だから、もしも障害によって行きたい学校に行く道がふさがれているように思われても、人生の道がふさがれることはあり得ません。リアリティに押しつぶされず、イマジネーションを保持し続ける特別な「勇気」を持たなければなりません。
逆説的に言うと、大きな夢は叶ってしまうとリアリティを帯びて、その輝きを失うのです。つまり、私の場合で言えば、中等教育のただなかで意識した夢など忘れてしまいます。逆にその中で叶わなかった夢は、今でもはっきり人生の課題として、また今なお大きく開かれた夢として、このただなかの私のリアリティの外側に広がっています。この夢の実現の仕方の両義性こそ、歴史創造的存在である障害学生が抱える「困難」の本当の意味です。
障害学生はあまりにも「困難」に取り囲まれているので、目の前の障壁と格闘しなければならない状況にあります。それは子供のうちから、大人でも負けてしまいそうな不条理に向き合うことです。その中でその障壁を法や社会が取り除いてくれるなら、それは望ましいことです。しかし、残念ながら法や社会はいつも大きなインターバルをもって変わっていくので、いま目の前にある「困難」を取り除きはしません。我々は法や社会の良き変化を望みますが、それを原理的に待つことはできません。そうではなく、自ら歴史を創造していかなければなりません。その「勇気」を持っていなければいけません。それによって唯一、自分の人生が開かれ、更にそれを多くの人がやるなら、歴史は動き出します。ところが、この創造が起こるためには逆説的に些末なリアリティはずっとリアリティとして残り続ける必要があります。「困難」がなくなることはありませんが、法や社会の配慮によって「困難」がないかのように見せかけられてしまったら、そのただなかにいる障害学生は小さなリアリティに満足し、大きなイマジネーションを持たなくなります。それは歴史創造的存在としての夢を失うことです。とはいえ、それでもなお障害学生が中等教育で挫折してしまうと、その夢も見られません。ここに障害学生の「困難」の極点があるのです。
今日のところ、私が指摘できる問題は以上です。しかし、繰り返し言っておきたいのは、私が思う大切なこととは、「困難」が「困難」として認識されるよりもはやく、大きな歴史的観点を持つことです。もしもみなさんが自分の障害に由来する「困難」よりもはるかに大きなイマジネーションを持つことができたなら、その「困難」はもはや忘れ去られて、どうでもいいことになるのです。そのときみなさんは歴史を創造しているでしょう。
補足
「中等教育におけるインクルーシブ教育」の課題として、しばしば「青春にも配慮を」と中等教育を経た障害学生から問題提起がなされます。「青春」とは教育の問題ではなく、人間論の問題であるという直観から、私は敢えてこれに批判をしておきたいと思います。
たしかに放課後の時間は「青春」の時間であり、そこに介助員がいないことによって、重度肢体不自由の学生が「青春」を享受できないなら、それは不当なことですし、「困難」として是正されるべきことです。しかし、「青春」とは放課後の時間に還元されてしまう、ありきたりで健常者的なものでいいのでしょうか。そんなリアリティを歴史創造的行為者である我々は享受する資格があるのでしょうか。
私は高校生のとき、好きな女の子に振られたことがあります。彼女と学校で仲良くしたつもりでしたし、放課後も可能な限り一緒にいる努力をしたつもりです。しかし、振られるのです。それは健常な男子学生よりも一緒にいられる時間が短いからでしょうか。普通のデートができないからでしょうか。違います。存在の仕方が根本的に違い過ぎて、高校生の障害者と健常者ではお互いのリアリティのギャップを乗り越える大きなイマジネーションを持てないからです。悪いのは「障害」でもなければ、社会体制でもありません。振られた日のことを思い出すと、振られたときのショックより、今でも確かに見出せるのは「明日、どうやっていい空気を取り戻すか」と必死になって考えていた時間です。そして「明日は無理でも、大人になって一緒に美味しいお酒が飲める日」とはどんな一日だろうか、というイマジネーションです。その限りで二人の「青春」が消えることはなく、大人になった今も「好き」の一点だけ叶わないまま、ずっと輝き続けているのです。もしも、私が高校生のとき叶えたかった「青春」が叶ってしまっていたら、その「青春」はもう忘れられてしまっていたでしょう。大切なのはイマジネーションです。