意思決定の伴走人

私はとあるメディアでライターをしていたが、何となく不全感に陥っていた。

「書けない」。というより「書きたくない」。そういう思いが先行して、結婚して新居に移ってからほとんどライターとしての仕事ができなくなっていた。

そのことを悠平さん(閒のホスト)に「キャリア相談がしたい」と言って聞いていただいた(もう何度目だろう)。そうしたら悠平さんはふんふんと話を聞いてくださった。その対話の中で私から出た答えは「私はプライドが高くて、どうしてもライターの仕事をしている自分像というのを(ほぼ仕事をしていないにもかかわらず)捨てきれないだけなんだ」というものだった。「自分の人生に満足していないからこんな問いが出てくるんだ」とも思った。私が文章中でよく自分のことを「ライター」ではなく「職業ライター」と書く癖について、どっかに自分はちゃんと働いて稼いでるんだっていうプライドがあって、でも実際のところは原稿の戻しを溜めまくって仕事全然できてないところが、プライドが高い、と私が解釈した理由なのだろうと対話の中では感じた。つまり、ろくに仕事してないのに「仕事してる私」というのを捨てきれないというか。多分そういうニュアンスだったと思う。

このことを閒の人達に共有したら、様々な意見が返ってきた。

「自分がどうしていきたいか(どう生きていきたいか)をきちんとまとめることが重要だと思う」という意見もあり、全くその通りだと思った。

閒の人達と話す中で、「頑張って頑張って2~3万稼ぐことで、ご機嫌でいられるならいいけど、そうなのかな?自分安売りしてない?」という趣旨の話をしてもらって、それもそうだなぁと思った。私は今の仕事でご機嫌ではいられない。

そもそもライターの仕事を始めようと思ったのは、メンタルヘルス系の媒体で、自分の経験が少しでも役に立って、なおかつ読者が読んでふと心が軽くなるような、そんな記事作成がしたいという動機からだったと思う。しかし同時に、「仕事をしている自分」というラベルが欲しかったという理由もある。

前者については、勿論もしかしたら誰かの役に立つ記事をいくつか書くことができたかもしれない。しかし、同じようなメンタルヘルス系媒体の記事をいくつか読んでみて、圧倒的な知識不足と「私が書いている記事(テーマ)は世の中のために本当に活きる文章なのか」ということを疑問に感じていたことも正直あった。

後者については、「仕事をしている自分」というラベルがなくなるのが怖かった。友人から「最近何してるの?」と訊かれたとき、専業主婦してるよ、と素直に言えない自分がいた。だって私には子どもがいない。子どもがおらず、家で何してるの?何もしてないの……?という声が聞こえてくるような気持ちになっていた。

閒の人との対話の中で、「私自身、自分がどうありたいか、そのために何をしたいのか、全くわかっていなくて、その中で書くことが好き、というファクターもあったけれど、それより家でできる仕事だし、最悪どんな時間にでもできる仕事だし、という消極的な理由からライターの仕事を選んだ節があって。もし私が外出可能で外で仕事できるならライターやってる可能性は低いし、自分が本当に何を求めてるのかっていうのがわからんのですよね。でもそんなのわかってる人の方が少ない気もするし、なんとも……」という発言が私から出た。

そう、そうなのだ。書くことを仕事にするのは楽しいけれど、今の私には体調的な問題も含めて「それしかできない」という認識もあった。それに一番大きな問題は、「自分が本当にしたいことがよくわからない」ということのようにも感じた。

こうして様々な人のご意見を伺ってみて、結論として私はライターをやめた。ずるずると書かない年月が溜まっていくのは精神的にも全然ヘルシーじゃないし、きっぱりと辞めてしまった方がいいだろうと感じたからだ。

その翌日か翌々日くらいに、昔自分が書いた小説を閒の中で共有してみた。「面白かった」と言ってもらえることが多くて、素直に嬉しかった。その小説は書いていて楽しかったし苦しかったこともあったけれど、自分が仕事をしていなくても好きなように創作を楽しむことに罪悪感を感じなくていいのだ、と思えた。多分、閒で相談しなければこのままズルズルとどっちつかずで精神衛生上全くよくない感じが続いていたのではないかなと思うので、この選択には後悔がない。

「私とあわい」というテーマで、いささか「私」よりの文章になってしまったけれど、閒にいる人々が自分事のように私の進路や悩みについてコメントしてくれる場合はままあって、それには本当に感謝している、そして、私の視点からしか見えなかった物事が第三者の意見によって揺らぎ、大事な意思決定のときに背中をぽんと押される感触があるというのは、純粋に有難いものであるとしみじみ思った。