「すべて」が埋まらなくても、わたしたちは生きていくし、生きていていい―映画「二十六夜待ち」

「男は、すべての記憶を失っていた。
女は、何もかも忘れたいと思った。
月と波がひかれあうようにふたりは出会いー」

福島県・いわきの片隅で生きる二人の男女の物語「二十六夜待ち」(主演: 井浦新・黒川芽以、監督・脚本: 腰川道夫)を観てきた。

僕はこの街に少なからぬ縁があって、この映画でも方言指導を担当し、ちょこっと劇中にも登場している岡田陽恵さんの紹介で、同じく腰川さん監督の「月子」(こちらは、男女二人の旅の行く先が福島県・富岡)を昨年観に行ったのだけど、今回もまた良かったです。

以下、ネタバレにならない程度に感想を。

8年前に記憶喪失状態で発見された男・杉谷。失踪届も出されておらず、身寄りもない。唯一、手が「料理すること」を覚えていたことを拠り所に、いわきの街の片隅で小料理屋を営む。

震災で兄以外の家族や家のすべてを失い、胸の内に消えない波の音を抱えながら、叔母の家に身を寄せ暮らす女・由美。ある日、街中に貼られたパート募集の張り紙を見つけて店を尋ね、杉谷と出会う。

舞台となるいわきは、震災後の復旧・復興工事で全国各地から作業員が集まる街だ。

店には、復旧工事に明け暮れる作業員たちが昼に夜にと集まってくる。杉谷と同じくこの街に縁を持たない作業員たちのバラバラな言葉と、地元の人たちのいわき訛りが店内に飛び交う。

「嫌なことがあったら海を見に行く」と由美の叔母が言ったように(劇中、由美が身を寄せる叔母の家からは海が見えず、また由美にとって海はトラウマでもあるのだが)、海と、魚が人々の生活に密着しているのが浜通りという地域だ。どんな魚も器用な手つきで捌いていく杉谷は、この街でどうあれ、小料理屋という営みを持つことができた。

杉谷が流れ着いた街が、いわきで良かったと思う。

杉谷は、自分が消えてしまいそうな恐怖を、由美は、消してしまいたい痛みの記憶を、それぞれに抱えている。

二人は劇中、何度も肌を重ね合わせる。畳の一室で、言葉少なに求め合う二人のセックスからは、よるべのなさ、たよりのなさ、が伝わってくる。

記憶を何もかも無くしながらもたくましい杉谷の身体つきが示すのは、恐怖と背中合わせに宿る生への渇望だろうか。

思い出すということ、忘れるということ。直接多くの背景は語られないが、二人の記憶を軸に物語は進む。

「2年が経ち、3年が経ち、今ではどうにか、大将の身体ん中に8年分が、溜まってる。きっと、それでいいんじゃねぇか」

発見直後から杉谷を見守る、市役所福祉課職員の木村(諏訪太朗・演)の言葉が印象深い。

また一方で木村は由美に対して、「生きてくためには、忘れなきゃいけないこともある」とも言う。

思い出せなくたっていい。忘れたっていい。

もちろんそれでも当人たちとしては、思い出せない、忘れられないことにもがき苦しむのだけれど、それさえも含めて、木村はただ見守り、肯定する。

それは、この映画の舞台がいわきであるということの意味でもあると思う。「もとどおり」の復旧はありえないとしても、そこからまた、どうあれ生活は続いてゆく。

「すべて」が揃っていなくても、わたしたちは生きていくし、生きていていいんだ。「二十六夜待ち」は、そのことを静かに肯定してくれる映画だと思う。

具体的に書くことは控えるけれど、最後に由美が杉谷に語りかける言葉が、とてもあたたかく、また"小さな"希望に満ち満ちていて、とても良かったです。