2021年3月27日に、広瀬巌『パンデミックの倫理学』のオンライン読書会をした。この記事は、本書の背景および読書会での対話を私が大幅に再構成したものである。
なお、わざわざ言うまでもないことだが、明確な断りのない限り、この記事で示される一切の見解は筆者(石田)のものである。また、この記事は、上記著作の要約を意図したものではない。
この本を読む目的は、一見したところ非常にわかりやすい。我々は今パンデミックを経験しており、かつ、それに関連して倫理的によいことと悪いことがあるのはおそらく間違いないからだ。もちろん、このパンデミックに関連して具体的に何がよくて何が悪いかについては意見が分かれるだろう。また、何がよくて何が悪いかが我々にわかるのかどうかも明らかではない。それでも、何でもいいわけでも全部ダメだというわけではないという意味で、よいことと悪いこと(もしくは「他に比べればマシなもの」)があるのは疑い得ないだろう。
しかし、パンデミックという(2021年4月の)我々にとって重大な出来事に触れる本だからこそ、この本が何をやっていて何をやっていないかを正しく理解して読むことが肝要だと私は考える。この意味で「はしがき」(p. i–vi)が非常に有益である。かなり大雑把に要約すると、この本がしてないことについて次のことが書かれている。
この本にはWHOの公式見解が書いてあるわけではない。
仮にWHOの見解が登場するとしても、それは全世界のすべての人に一律にあてはまる万能ガイドラインを目指すものではない。
この本は、パンデミック関連の政策について重要な観点のひとつである倫理学的観点から述べたものであり、そのほかの観点が重要でないとも、倫理学的観点が一番重要だとも言っていない。
「ポストコロナの人類」などという巨大な話をしていない。
第三の点に注目してほしい。たとえば、疫学的観点からはすばらしいが倫理的観点からはかなり悪い政策があるとしよう(逆でもいいし、また疫学的観点の代わりに経済的観点などほかのものを入れてもいい)。こういうとき、いくら倫理学者でも、その政策がすべてのことを考慮して(all things considered)支持されるかどうかを倫理的観点だけで判断することはしないだろう。この本は、政策をあくまで倫理的観点に絞って論じている。それがほかの観点で見てどうか、またすべてのことを考慮して支持されるかどうか、これらは別の問題だ。ただし、繰り返しになるが、倫理がどうでもいいというわけではない。倫理も重要な考慮事項のひとつだ。
もうひとつ、広瀬は(おそらく、あまりに当たり前なので)はっきりと書いていないが、この本が何をやっていないかについて重要なのが次の点だ。この本は「明日から使える倫理的アドバイス集」ではない。
それでは、この本は一体何の本なのか。この本がやっているのは、パンデミック関連の政策について生じる倫理的問題について、その問題について考えるときの基礎となる理屈を詰めていくという作業だ。もう少し正確にいえば、パンデミック関連の国際的倫理指針にどういう倫理学的な争点があるのかを示し、それについて既存の哲学的議論の蓄積をもとに解説すること、これがこの本の骨子だ(と私は理解している)。
理屈がメインになるという点について、次のように反論する人がいるかもしれない。新型コロナウイルス感染症のパンデミックはまさに現在進行形であり、それにより苦しんでいる人が大勢いるというのに、倫理だ何だといって理屈をこねる意義などないのではないか?
重要なのは、この主張のあとに何を続けるかだ。もし「だから倫理など気にしなくていいんだ」が続くとしたら、ほとんどの人にとってそれは到底受け入れないだろう。すでに述べたように、具体的に何が倫理的によいかやそれを我々がわかるかどうかはともかく、倫理的問題がまったく生じないというのは、一言でいえば間違っている。たしかに、新型コロナウイルス感染症パンデミックはまさに現在進行形であり、それにより苦しんでいる(それどころか生死の境をさまよっている)人が大勢いる。だからこそ、せめてその苦しみの分配が不公平にならないようにしなければならないし、もし誰かの苦しみが避けられないのであればそれについて説明できなければならない(もちろん、誰も苦しまないようにできるならそれが理想的だが)。かなり雑な言い方をすれば、パンデミックというのが緊急事態であることは百も承知で、緊急時のどさくさに紛れて不正・不公平な扱いをしないようにすることが、パンデミックの倫理学の目的だ——少なくとも私はそう理解している。
(ところで、もし先の主張のあとに「だから、家でオンライン読書会などしている暇があったら、もっと世のため人のためになることをしろ」が続くとしたら、私はこれはかなり苛酷な要求だと思う。)
もちろん、政策決定者が、パンデミックのさなかに倫理の理屈の話から始めてパンデミック対応倫理指針を決めようとしているとしたら、それは得策ではないだろう。だからこそ、「感染症パンデミックへの対応策とその倫理的基礎はパンデミックになる前に作成され、議論され、理解される必要がある」(p. 9)。ちなみに、この本で頻繁に言及されるWHOのパンデミック対応倫理指針は、今回のパンデミックどころか、約10年前の新型インフルエンザパンデミックよりさらに前の2006年に作られている。
では、実際にパンデミックに関連してどのような倫理学的な争点が生じるのか。広瀬が挙げているのは主に以下の二つだ。
第一に、医療資源の選択的分配(rationing)が問題となる。選択的分配が問題となる医療資源には、人工呼吸器やワクチンや抗ウイルス薬がある。もちろん、この手の主張には「パイを大きくすればいいじゃないか」という反論がつきものだ。平常時であればそれでいいのかもしれない(実際には平常時でも分配的正義は問題になるのだが)。しかし、短期間のうちに医療資源の供給力を上回る需要が生じてしまうというのがパンデミックの特徴のひとつだ。そういうわけで、パンデミック下では選択的分配の問題を避けられない。
第二の争点は、第二は感染拡大を抑えるための基本的な権利と自由の制限だ。これが感染症に特有の論点であることは明らかだろう。具体的に問題になるのは、感染者の隔離のほか、移動や経済活動に制約をかけることや、私有財産を感染症対策のために使うこと(たとえばホテルを強制的に借り上げて隔離施設とすること)などだ。こうした論点について、「何があろうと基本的な権利と自由の制限は許されない」という強硬派には無理があるだろうし、反対に「感染症対策のためなら何をやってもいい」というのも支持しがたい。どういう場合に何ならやっていいのか、これをせめて一般的指針のレベルで考えておく必要がある。
こうした争点を倫理学的観点から扱うにあたり、どこから始めればいいのか。広瀬がこの本でとる戦略の骨子は次のとおりだ。
「もし反証が提示されないならば正しい」といえる暫定解(デフォルト扱いしてよいもの、いわば暫定ベストアンサー)を用意する。
1で用意した暫定解に対する反証となりそうな事例や考えを挙げ、それが説得的かどうかを検討する。
2の検討にもとづいて、1で用意した暫定解を微修正する。
誤解を恐れずにいえば、1で登場するのは「議論の叩き台」だ。ただし、叩き台なら何でもいいわけではなく、叩き台にもよいものと悪いものがある——これはたとえば仕事のミーティングと同じだ。倫理学におけるよい叩き台とは、特段の事情(つまり説得力のある反論や考慮事項)がないならば支持してもいいと多くの人が思えるような考え方である。そして、パンデミックの倫理学においてこの暫定解にあたるのが、救命数最大化原理、つまり「より多くの人の生命を救うことは正しい」という原理だと広瀬は考えている。ただし、繰り返すように、これは暫定解だ。2で登場する考慮要因として広瀬が挙げるのは、公平性と透明性だ。
上の骨子に沿って(とくに「公平性」と「透明性」について)広瀬が具体的にどういう議論を進めているかについては、実際に『パンデミックの倫理学』を読んでいただきたい。広瀬自身が書いているとおり、第1章と第2章では抽象的な議論がなされていて、(一般向け書籍とは思えないレベルの)歯ごたえと面白さがある。続く第3章と第4章では、パンデミックという問題に絞って、上の二つの倫理学的争点(医療資源の選択的分配と、感染対策のための権利・自由の制限)がそれぞれ扱われる。最後に、第5章では、今まさに問題となっている新型コロナウイルス感染症が取り上げられる。とくに、条件確率や反事実的条件法についての正しい理解と、それを基にした「まっとうな政策批判」が、この章の主題だ。もしかすると、条件確率の話に限っては、感染率やら何やらという数字をどう理解するべきかについて明日から使えるアドバイスが得られるかもしれない。
書いた人
■石田柊
分析的道徳哲学者。一言でいえば、(1)幸せな人生を送るとはどういうことかと、(2)誰かの幸せが別の誰かの幸せを踏みにじっている場合にどうすればいいかを理論的に研究しています。「わかったつもり」の解消が生きがいです。