2021年4月25日に、児玉真美『アシュリー事件』のオンライン読書会をした。この記事は、本書の背景および読書会での対話を私が大幅に再構成したものである。
この本は、タイトルが示すとおり、生命倫理学の議論において頻繁に出てくる「アシュリー事件」を題材としたものである。とくに、これまで生命倫理学の議論においてあまり省みられなかった事実的側面に注目して、「いわゆる『アシュリー事件』では、実際には何が起きていて何が起きていないのか」を明らかにするのが、この本の目的であり、また魅力でもある。そして、報道関係者や生命倫理学者や一般の人々が往々にしてこの「事件」の事実について誤解を持ったまま、本来アシュリーさんに関係のない哲学的論争を「アシュリー事件」に絡めて扱っていることが、鋭く批判されている。
「アシュリー事件」についての事実的側面をこの記事で改めて整理することは避ける。ただし、生命倫理学に一定の馴染みがある筆者にとって、この本が「アシュリー事件」についての事実確認にあたり極めて有益だったことを記しておきたい。もちろん、二次資料である本書を超えて一次資料にアクセスしてこそ事実確認が達成されるというのは言うまでもない。しかし、事実確認の最初のステップとして本書が優れていること、および二次資料による事実確認すら(哲学者にとっては)疎かになりがちであることに鑑みれば、二次資料だからといって本書を軽んじる理由はほとんどないだろう。
この本を読み読書会に参加したあと、筆者にはひとつ疑問が生じた。哲学の議論において実際の事例に言及するとき、常に事実確認が必要だろうか。必要でない場合があるとすると、それはどんな場合だろうか。
まさにアシュリーさんに対する実際の医学的介入について話す場合には、事実を無視していいはずがないだろう。たとえば、アシュリーさんに対する医学的介入を扱うワイドショーに哲学者が呼ばれてそこでコメントをする場合が、これにあたる。誤った情報にもとづく主張が人々を混乱させ、社会の分断を生み、そして何より関係者に多大な不利益をもたらすということを、我々はここ5年ほどで痛いほど味わってきたはずだ。
筆者(石田)はこれに一切反対しないし、おそらく生命倫理学者をはじめとする哲学者のほとんどはこれに同意すると筆者は考える。意見が分かれるとすれば、次の二つだろう。
アシュリーさんに対する医学的介入について、実際の話ではなく「もしこうだったら」という仮定の話をする場合に、事実を無視してよいかどうか
アシュリーさんに対する医学的介入の話ではなく、一般的な哲学の議論をする場合に、アシュリーさんについての事実を無視してよいかどうか
実は、哲学者が思考実験をどのようにやるべきか(やってよいか)はそれ自体が倫理学の主題になっていて、そう簡単に「仮定の思考実験の話なんだから、事実なんかどうでもいいに決まってる!」と押し切れるわけではない。とはいえ、アシュリーさんに対する実際の医学的介入について話すときと、仮定の話をするとき、また一般的な哲学の議論をする場合とで、事実に依拠することの重要性が変わってくるという主張には一理ある。
たとえば、次のように言うことができる。
Xしてよいのは、相手がAの場合だけだ。もしアシュリーさんがAだったならばXしてよかったかもしれないが、実際にはアシュリーさんはAではないので、アシュリーさんに対してXしてはいけない。
アシュリーさんに対する実際の医学的介入について論じるときに、事実を理解する必要があるのは、この「実際には」以下を正しく言うためだと考えることができる。「もし」の部分にはアシュリーさんに関する誤情報が入るけれども、上のように言う人は、その誤情報を信じているわけでもなければ、その誤情報にもとづく主張をしているわけでもない。現代日本語でははっきりしないけれども、ここは反実仮想とか仮定法とか接続法と呼ばれる表現を使うところだ。哲学者の主張には、こうした反実条件文が頻繁に出てくるのである。
次のように反論したい人がいるかもしれない——わざわざ回りくどい反実条件文など使わないで、事実に即したことだけ言えばいいのではないか? あとで否定するなら、条件文の形とはいえ誤情報に言及する必要などないのではないか?
哲学者は何のために反実条件文を使い、反実条件文を使って何をしたいのか。基本的には、ある結論が正しいかどうかではなく、その結論が正しいといえる理由を検討するときには、哲学者は反実条件文を使うと思って差し支えない。
たとえば、哲学者が(あくまで哲学者として)言おうとするのは、「アシュリーさんにXをしてはいけない」ではなく、「アシュリーさんにXをしてはいけないのは、Rという理由による」だ。哲学者同士の議論では、「アシュリーさんにXをしてはいけない」について完全に合意しながら、そう判断する根拠として何が適切かをめぐって真剣な議論が交わされることがある。このとき、どれが適切な理由なのかを判断するには、様々な条件を試しに(事実に反して)変えてみて、どの条件が変わると「Xしてはいけない」という主張が一緒に変わるのかを理解する必要がある。反実条件文が必要なのは、事実に反して条件を様々に変えることによって、「Xしてはいけない」という主張と真に連動している条件をあぶり出すためだ。
ただし、繰り返すように、反実条件文を使った思考実験だからといって「なんでもあり」なわけではないのは確かだ。「アシュリー事件」についていえば、少なくとも次のことを問う意義が十分にある。反実条件文内でアシュリーさんの名前を出す必要はあったのか(「Xさん」ではいけなかったのか)? とくに、反実条件文による議論に不慣れな人が現実にいることに鑑みて、アシュリーさんについての誤情報の意図せぬ拡散を招かないようにする必要があったのではないか? こうした問いが無益だとは私は思わない。
最後に、倫理学者の端くれとして、本書の中でも出てきた、功利主義(者)に対する批判の一部に触れたい。ピーター・シンガーをはじめとする功利主義者は、重度障害のある人について、おおむね次のような(極めて乱暴な)立場をとっていると一般に考えられている。
ある介入行為が道徳的に悪いのは、その介入行為が相手の「人間としての尊厳」を侵害する場合であり、かつその場合に限る。
「人間としての尊厳」は、人間だけが持つ高度な認知的能力による。
重度障害がある人には高度な認知的能力がない。
2と3より、重度障害がある人には「人間としての尊厳」がない。
4より、重度障害がある人の「人間としての尊厳」を侵害することはない。
1と5より、重度障害がある人に対する介入行為は道徳的に悪くない。
これが乱暴な主張であることには筆者(石田)も同意する。また、結論6を筆者は支持しない。(そして、意外かもしれないが、ほとんどの功利主義者は、結論6を支持したくて1から6への推論をするわけではない——下で見るように、これは背理法だ。)
だが、哲学者が結論ではなくその根拠を重視することを思い出してほしい。哲学者にとっての関心事は、結論6が誤りだということ自体ではない。結論6がなぜ誤りなのか、つまり1から6への推論のどこがおかしいのか、これが哲学者の関心事だ。
多くの人は、上のような立場について、前提2を否定することで小結論4を否定し、最終的に結論6を否定する。すなわち、「人間としての尊厳」は決して高度な認知的能力とやらに依拠するわけではなく、もっと別のもの、たとえば感情的交流の能力や人間であること自体に依拠するというわけだ。これは哲学者のあいだでも一定の支持を集めている。
他方で、この戦略はあまりうまくいかないことが知られつつある。たとえば、認知的能力であれ共感能力であれ、こうしたものがヒトだけに許された特殊能力だという考えは覆されつつある(これは基本的には科学研究でわかることだ)。そもそも、ヒトと動物の間に明確な倫理的断絶があるという見方は、完全に否定されたわけではないにせよ、昔に比べると説得力が落ちている(こちらは純粋な倫理学の問題だ)。2021年を生きる我々は、「ヒトを動物と比べるなんて失礼だ」というのをあまり堂々と支持できないし、今後はますますそうなっていくだろう。
そこで、功利主義者は別戦略を取る。前提1を否定することでダイレクトに結論6を否定するのである。誤解を恐れずに言えば、功利主義者が言っているのはこういうことだ——「重度障害がある人に対するかくかくの介入行為が道徳的に悪いのは明らかだろう。だが、『人間としての尊厳』に訴える戦略ではこれが言えない。効用(幸福)に訴える戦略であれば、うまくいく」。重要な点として、功利主義者は決して「重度障害のある人は効用(幸福)の原理を適用し、健常な人間には尊厳原理を適用せよ」などとは言わない。それは功利主義ではない。功利主義者が言っているのは、「誰に対しても効用(幸福)の原理を適用せよ」ということだ。これが功利主義だ。
もちろん、これで功利主義が義務論より優れていると示されたわけではない。尊厳に訴えるのが効用(幸福)に訴えるよりも強いインパクトを持つということは確かだ。そのため、哲学的議論はともかく、日々の道徳的判断や各種倫理指針において尊厳を重視するのはまったく問題ないかもしれない(そういう主張をしている哲学者は昔からいる)。さらに、「尊厳」概念にしても、認知的能力に訴えるものより適切な尊厳概念がありえて、そうすれば「人間としての尊厳」に訴えたルートが再び説得力を増すかもしれない。ただし、繰り返しになるが、ヒトを特権視するという戦略は、21世紀においてはそう自明なものとしては使えない。「尊厳」は、批判者が言うほど空虚ではないかもしれないが、厳密さを求め始めると扱いづらくなるのは間違いない。