お盆の割に人がまばらなショッピングモールで、まぶたを二重に細工するあれこれを見かけて、アイプチをしていた「彼女」のことをふと思い出した。
彼女とは中学時代の同級生だったから、話す機会も多くあった。当時はまだ細眉が流行っていたように思う。彼女は不揃いの太い眉を細く整え、一重で半月型の目をアイプチで細工し、思春期でニキビがちだった肌に白い日焼け止めを塗っていた。前歯は不揃いで、飛び出ている歯もあった。心ない男子たちにからかわれてきた積み重ねがあってか、彼女の心は屈折していて、いわゆるナチュラルに可愛い女の子に対して敵愾心を向けたりしていた。それをわたしはよく聞かされていた。
当時わたしは、乾いたアイプチが彼女の目の淵に見えるのを正直汚らしく感じていた。しかし今思えばそれは、彼女にとってはおそらくコンプレックスのかたまりだった顔をより良くするため、一重だった目を二重にするための涙ぐましい努力だったはずで、そう考えたら愛おしくすら思えてくる。
彼女はアイプチだけでなくほくろのレーザー治療もしていたのだけれど、私はそれにも無頓着で、彼女のほくろがなくなってしまってからそのことに気づき、新鮮な驚きを覚えた。ほくろがあろうとなかろうと彼女は彼女なんだけれど、わたしにとってはほくろのある彼女とほくろを取った彼女が同じ彼女なのかすぐには確信が持てなかった。
一方、当時のわたしは、大人しくて目立たない性格ではありつつも、色白で細く、二重の左目と奥二重の右目を持ち、丸い鼻(わたしはそれがコンプレックスだった)で、それなりに「可愛い」見た目をしていて、それをある程度自覚していた。そんなわたしは、彼女からすると、それこそ敵愾心を持つ対象だったろうと思う。
彼女にとっても、おそらく当時同じ教室にいたどの女の子にとっても、外見というのは人から好かれるために大事な要素を占めるもので、それはわたしにとって無関係ではなかったけれど、「でも自分はある程度『可愛らしい』方だから」などと傲慢にも思っていたわけで、アイプチに執着する彼女の切実さを分かることなどできなかった。
それでもわたしはわたしでルッキズムに縛られていて、しばしばそれに振り回されてきつい思いをたくさんしたけれど、どこかでわたしの魅力は外見にはなく、たとえ醜悪な外見をしていたとしても自分は魅力的なのだという自尊心があった。しかしそれには多分に外見が影響していただろうと思う。わたしたちはそういう時代を生きてきた。
幼い頃から自分の外見に「醜い」という烙印を捺されて生きてきたであろう「彼女」と、人並みに「可愛い」と評価されて生きてきた「わたし」は、世の中に無数にいて、わたしたちは出方が違いつつも、皆だれかが造った「像」に振り回されて生きてきた。彼女のその後は断片的にしか分からないけれど、数回会った時はいずれも「綺麗に」していた。服装は女性らしいそれで、彼女の中学時代を知っているわたしにはそれが不釣り合いに思えて不思議だったけれど、彼女は今彼女の望む外見を手に入れつつあるのだろうなと感じた。
一方でわたしはその後、精神を病み、外見が崩れた。太り、一般的に可愛いとされる基準を外れたと自覚している。けれど、思春期の彼女のような方向にわたしは走らなかった。しかし、可愛いとされる外見じゃないと愛されないという気持ちはどこかで残ってはいて、だからわたしは、時に痩せたいと願ったり、そのせいで食べ過ぎてしまったりするのかもしれない。
世の中に無数に存在する「彼女」と「わたし」は、今日もそこかしこに生きている。愛されたいという気持ちを胸の奥に抱えながら、自分で自分を愛したいと願いながら、美を求めてときめく気持ちと同じく美を求めて苦しむ切実さのはざまで揺れながら、鏡の中の自分を見つめ、今日を生きている。