触れる喜びと触れる勇気

MOLESKIN(モレスキン)のノートを買った。きっかけは、映画監督の今泉力哉さんのTwitterでのつぶやきだ。

その頃。映画『街の上で』の上映の受付の仕事をしていた。上映の楽日に今泉監督がふらりと来場されて、お客様へのご挨拶を希望された。その日は受付の仕事だったが、映画の舞台挨拶の司会は何度も経験しているので、「私がご案内します」と手を挙げて、上映終了後に即席司会をした。

映画の上映が終了して、まだ場内の明かりが灯る前に、ステージに小走り気味で急ぎ、お客様に「突然ではございますが、急遽今泉力哉監督がいらしていますので、皆様にご挨拶をさせていただきます」とアナウンスした瞬間、場内のお客様の表情が一瞬で嬉しそうな顔へと変化していった。それはそうだろう。エンドロールが終わって、映画の余韻に浸っていたら、今観たばかりの映画を作った監督が来ていて、目の前で話してくれるというサプライズは、私が観客側にいても同じ表情をするだろう。

司会側から、一つの場所に集まった人たちの表情を直接見るのは久しぶりだった。2020年に起きた新型コロナウイルスによるパンデミックで、イベントの司会の仕事はすっかり無くなっていたし、あったとしてもオンラインでの司会が多く、来場者の表情を見てイベントの司会をするのは、即席とはいえ約2年ぶりだった。「あぁ、これだ。私がずっと見てきたのは、リアルでのこのお客様の表情だ」と、私の顔も間違いなくそのとき、とても嬉しい顔をしていたはずだ。

人々の喜びを目の前で久しぶりに見ることができた。
この瞬間に触れることが私はすごく好きだ。

コロナ禍で遠ざかってしまっていた、人がわくわくする気持ちになったときに生まれるあの空気。映画やイベント、エンターテイメントの力は、こうして一瞬にして人間の表情を幸せに導くことができる。

そんな場面に私は人生で何度も触れてきた。

自分が「触れる」という言葉を使うときは、体温を感じるような直接的な「触れる」ではなく、目の前に形となって掴めるものでははないけれど、それでも確かに「ここにある」と感じるときに、「触れる」という言葉を選んでいる。

言葉に触れる。
音楽に触れる。
空気に触れる。

そんな形のないものに触れられるとき、私の心には喜びがふわりと舞い降りる。

即席舞台挨拶後に、今泉監督のTwitterを見ていたら、MOLESKINのノートを使っていることが書かれていた。高いノートだけど、このノートを使うようになったら、良いことが巡ってくるようになったという内容のつぶやきだった。(なお、今泉監督のツイートはほとんどがつぶやかれたあとにはすぐに消えているので、このMOLESKINのノートのことも今では消えてしまっている。)

それは良いことを知ったとばかりに文房具屋へMOLESKINのノートを買いに行ったのだが、確かに高い。何度も悩んで、ついに買ったのは、「自分の心にちゃんと触れていない」と思ったからだ。

10代の頃から書くことが好きだった。日記や詩はもちろん、どこに言えるわけでもない心の葛藤などを綴ったノートが何冊もある。けれどもいつしか、自分の思いはインターネット上の「書ける」場所で綴ることが主となり、それは同時に「読まれる」ことを前提とした文章を書くことへと繋がっていた。

果たしてそれでいいのか? という疑問が生まれた。

自分の心のままに、ノートに言葉を書いていた自分を見失っている。それは同時に、私自身の心の奥深くに触れることから遠ざかっていることでもある。

自分が今、何を喜びとしているのか。
自分が今、何を苦しみとしているのか。
自分が今、何を求めているのか。

私が私の心にちゃんと目を向けないでいて、より良い日々など訪れるのだろうか。

高いノートに文字を書き込むには、勇気がいる。
自分の心にちゃんと触れることも、勇気がいる。

MOLESKINのノートにはまだ一文字も書けていない。だから、最初の言葉を書いたときに、きっと今とは違う空気に触れることができるだろうと勝手にわくわくしている。そして、いずれこのエッセイの中でも、ノートに書いた言葉を表現の一つとして用いることも考えられる。

「読まれる」ことを前提としたインターネットに公開された文章の中に、「読まれない」ことを前提とした紙のノートに記された文章が混ざるとき、私はまだ知らぬ自分自身に触れられるのかもしれない。

写真:Kiyoko Takemura