触れ合うことーときに子育て、ときにセックス

 私の息子は触覚が敏感だ。自分より温度が低いものや柔らかいものに触ることが気持ちいいと感じるようで、寝転んでいる私の上に乗ってきて、手足でさわさわと私の肌に触ってくる。耳たぶを触るのも好きだ。これは息子が赤ちゃんの頃から、ずっとそうである。

 これが私には我慢ならない。もちろん息子のことが嫌いなわけじゃない。息子からすると、それは触覚としての快感を感じる行為であるだけでなく、親との触れ合いや、そこから得られる安心感を求めているのだろう。

 伊藤亜紗『手の倫理』には、次のような箇所がある。

「私たちは、日々の生活のなかで自分の輪郭を見失い、不安にかられることがあります。そんなとき、ふと何かに包まれたり、何かを抱きしめたりすることで、精神的な安心を得たり、確かさの感覚を取り戻したりすることがあります。さわることでさわられ、そのことによって自分の存在を確認する。私たちが輪郭を見失ったとき、触覚の非対称性が、確かな安らぎを与えてくれます。」

 この箇所を読んで、私はまさに息子のことを思い浮かべた。だからできるなら我慢して、触りたい息子の気持ちに応えてあげたいと思うのだけれど、どうしても不快なのだ。そのことについてずっと私は悩んできた。なぜ私はこれを我慢できないのだろうか。息子に応じることのできない私には、どこか欠陥があるのではないだろうか。

 ところで、このエッセイのお題は「触れることについて」なのに関わらず、私はこれまで「触る」という単語を用いている。両者の違いについて、『手の倫理』には、

「『ふれる』が相互的であるのに対し、『さわる』は一方的である。」

と書かれている。私は息子から一方的に「触られた」と感じているのだ。

 とはいえ私は親だから、それを受け入れ、我慢しなければならないと思い、苦痛を感じてきた。ここで新たな問いが浮かんでくる。では相互的に私からも息子に「触れ」ていけばいいのではないか。

 しかし否。それはできないのだ。それには理由がある。私にとって息子が求めるように触れ合うことは、セックスを連想する行為であり、それはもちろん忌避すべきものであるからだ。こんなふうに思い、感じる私はおかしいだろうか。

 『手の倫理』には「介助とセックス」という章がある。そこにある男性のエピソードが出てくる。彼は介助の仕事をしているのだが、ある日女性とセックスしようと、女性の服を脱がそうとしたとき、「介助に似ている」と、セックスと介助とを混乱してしまったというのだ。

 介助が子育てに置き換わっただけで、これは私が経験していることと同じだと私は思った。私もセックスと子育てとを混乱してしまっていたのだ。とはいえ、はっきり書いておかねばならないのは、もちろん私は息子に欲情しているのではないということだ。むしろ、忌避すべきものであると、不快に感じている。

 それを私は、「どこか欠陥があるのではないだろうか」、「おかしいのだろうか」と悩んできた。なぜそんなことが起きるのかというと、「同じ体がやっていること」だからと伊藤は言う。

 それを読んで私は、「なんだそんな答えか」と拍子抜けしつつも、妙に納得してしまった。私の感じたことは、親として欠陥があるわけでもないし、おかしいわけでもなく、よくあることなのだと教えてもらった気がした。

 世の中には私と同じような悩みを抱えている親が実はたくさんいるかもしれない。そんな人たちに、この文章が届けばいい。あなたの抱える混乱は当然のことであって、何らおかしいものではないよ、と。それが言いたくて、この文章を書いた。