2021年1月31日に、デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか?』のオンライン読書会をした。前回はこの本の4–6章を読み、差別というのが実は一筋縄でいかない理論的問題を伴うということをみた。今回は1–2章を読み、ヘルマン自身の立場を追う。この記事は、読書会での対話を私が大幅に再構成したものである。
※前回の読書会の記事はこちら
ヘルマンは、自らの主張を展開する前に、いくつか下準備をしている。第一に、「差別」という言葉の使い方について約束をしている。前回の記事でみたように、ヘルマンは、「差別」を、不正(もしくは悪質――同じことだと考えてほしい)であるかどうかを問わない中立的な語として使う。そうすると何が嬉しいのか。日常的には、人々を分け隔てすることのうち不正なものを「差別」といい、不正でないものを「区別」という。しかし、不正なものを「不正な差別」といい、不正でないものを「不正でない差別」というほうが、表記として簡単だし、はっきりする。以下では「差別」をこのように使う。
このとき、(1)ある行為・制度が差別という種類にあたるかどうかと、(2)それが不正であるかどうかは、基本的には別問題だということになる。つまり、差別ではあるが不正でないものや、差別でないが不正ではあるものを考えることができる。後者は言うまでもないだろう。殺人や詐欺や侮辱のように、差別でなくても不正であるようなものはたくさんある。
第二に、差別がいつ不正であるかにとって問題なのは、ある行為・制度が差別的であることによって生じる不正さであって、差別的になされている行為・制度そのものの不正さではない。たとえば、「外国人を差別的に殴る」については、人を殴ること自体が悪いのに加えて、それを外国人差別的にやることはさらに悪いといえる。他方で、「外国人を差別的に解雇する」については、人を解雇すること自体は(きちんと手続きを経てやるならば)悪くないが、それを外国人差別的にやることは悪いといえる。
このことは、日常的に「差別」が話題になるとき通常は忘れられるが、差別の不正さについて考えるためには必ず押さえておくべきだ。具体例を出そう。女性の性的特徴を強調した異性愛男性向け広告を駅前に出すことは、しばしば、女性を性的対象として描いている点で女性差別的で不正だといわれる。しかし、これは厳密にはどういう主張なのだろうか。少なくとも三つの解釈ができる。
そのような広告は、女性だけを性的対象として描いている点で不正だ。もし、男性の性的特徴を強調した異性愛女性向け広告が世の中に同じくらいあったとしても、歴史的に女性が性的対象として扱われてきたことに鑑みて異性愛男性向け広告だけが(とくに)不正だ。
そのような広告は、女性だけを性的対象として描いている点で不正だ。もし、男性の性的特徴を強調した異性愛女性向け広告が世の中に同じくらいあったならば、(生物学的性については)両性が等しく性的対象として扱われているので、さしあたり不正ではない。
そのような広告は、性別を問わず人を性的対象として描いている点で不正だ。もし、男性の性的特徴を強調した異性愛女性向け広告が世の中に同じくらいあったとしても、それもひっくるめてすべて不正だ。
どの立場も、駅前のあの下品な広告が(単に下品なだけでなく)道徳的に不正だということには合意している。けれども、これが不正である理由については意見を異にしている。いまの文脈で重要なのは次の違いだ。1と2は、あの広告の不正さを、あの広告が差別的であることに関連付けている。だから、ほかの広告で誰が性的に描かれているかが大事になる。それに対して、3は、あの広告の不正さを、差別には結びつけていない。問題となっている広告自体の性質だけを見ればいいのだ。繰り返しになるが、差別の不正さを考える上で問題になるのは1や2の観点だ。3は正しいかもしれないが、もし3が正しいならそれは差別の問題ではない。
ヘルマンの主張を短く要約すると、次のようになる。
貶価する(demean)というのは、聞き慣れない言葉だが、ヘルマンの議論における超重要概念だ。ざっくりといえば次のようになる。まず、ヘルマンは、すべての人が等しい道徳的価値をもつと前提している(変な前提ではないだろう)。その上で、たとえば私が「Aさんは私より劣っており、私より道徳的価値が小さい」というメッセージを事実上発するような行為をしたならば、私はAさんを貶価したことになる。
ヘルマンは、どんな状況で何をしたら貶価したことになるかは文化的におおむね決まると考えている。貶価が成立したかどうかを決めるうえで、私の意図も、Aさんがどう感じたかも、関係がないということだ(この意味で、貶価が成立したかどうかは客観的に決まるといえる)。これは、たとえば中指を立てることや唾を吐きかけることが侮辱を意味するということが、やった人の意図や、やられた人の感じ方から独立に決まるのと同じである。ヘルマンは、ある種の行為・制度は客観的にいって貶価という意味をもち、そういう意味をもつ行為・制度は不正だと考えているのだ。
貶価が成立したかどうかを決める上では、ある行為を誰が誰に対してやったかが問題になりうる。仮に、唾を吐きかけることが侮辱を意味するとしよう。それでも、私が総理大臣に対して唾を吐きかけることと、私がホームレスの人々に対して唾を吐きかけることとでは、話が違うだろう。後者がかなり重大な貶価になるのに対して、前者は(みっともない行為ではあるが)貶価にはならない。私ごときが侮辱したところで、総理大臣の道徳的価値を貶めることはできないからだ。繰り返すように、ある行為が貶価的な意味をもつかどうかは、私の意図によって決まるものではない。
同じことが集団についてもいえる。ヘルマンによれば、同じ行為・制度であっても、それが歴史的に不利益を被ってきた集団や現在不利益を被っている集団に向けられるほうが、そうでない集団に向けられる場合よりも、貶価の意味をもちやすい。たとえば、女性は、男性に比べて、歴史的に不利益を被ってきたし、現在も不利益を被っている。これに鑑みて、性別を理由として男性が女性を公の場で侮辱するのと、同じことを女性が男性に対してやるのとでは、前者のほうが(より大きな)貶価の意味をもちやすいだろう。
とはいえ、歴史的に不利益を被ってきたからという理由で、女性は男性をいくら侮辱しても貶価的にも不正にもならないというわけではない。重要なのは、あくまで、(どのくらいの)貶価が成立するかだ。男性が女性を侮辱するのと女性が男性を侮辱するのとでわけが違うというのは、前者のほうが後者よりも貶価的でありやすいという傾向の話でしかない。このことをヘルマンは強調している。男性が女性を侮辱してかつ貶価的でないこともあるし、女性が男性を侮辱してかつ貶価的であることも当然あるのだ。
最後に、今回の読書会で扱わなかった第3章に簡単に触れたい。
ヘルマンは、ある行為がどんな意味をもつかは客観的に決まると考えて、その「客観的な」意味を差別の不正さの判定に使った。しかし、実際問題として、ある行為がどんな意味をもつかが関係者間で完全に合意されることは稀だし、とくに差別がかかわるときにはそうした解釈の対立こそが争点となる。たとえば、卍の「客観的な」意味は、ユダヤ人差別だろうか、それとも仏教の伝統的シンボルだろうか。最近では、英国のサッカークラブがスペイン語の単語を英語読みして語義を「誤解」し、選手をレイシスト扱いするという問題も生じた。こういうとき、ある行為の「客観的な」意味をどうやって決めたらよいのだろうか――これが第3章のテーマである。
ヘルマンの答えは少々煮え切らないが、少なくとも次のことを言っている。
ある主題について客観的な主張が可能かどうか(タイプ客観性)と、その主題についてなされる個々の主張が客観的かどうか(トークン客観性)は、別問題だ。
ある差別的行為の意味は、多数派の意見だけでは決まらない。
ある差別的行為の意味は、その行為の被害者の意見だけでは決まらない。
たしかに見解の不一致は完全には消えないが、客観的意味ベースで差別の不正さを論じると、弱い論拠を排除でき、より実りある議論ができる。
これで納得するかどうかは読者に委ねる。また、納得するとしても、ヘルマンよりもっといいしかたで客観的意味説を展開できるかもしれない。ヘルマンの議論に対しては、擁護側・反論側ともに研究がいろいろあるので、興味がある方は各自で調べてほしい。魅力的なブルー・オーシャンの広がりを感じられるはずだ。
書いた人
■石田柊
分析的道徳哲学者。一言でいえば、(1)幸せな人生を送るとはどういうことかと、(2)誰かの幸せが別の誰かの幸せを踏みにじっている場合にどうすればいいかを理論的に研究しています。「わかったつもり」の解消が生きがいです。